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9月9日水曜日 キューバを去ってメキシコへ


(1)アメリカ利益センター

(2)さらばハバナ・リブレ

(3)メイン号記念碑

(4)ハバナ空港へ

(5)さらばキューバ

(6)カンクン

(7)寂しい晩餐


 

アメリカ利益センター

8時に起きた。

今日は帰国の日であるが、送迎のルイスさんとの待ち合わせは13時だから、中途半端に時間がある。そこで、いつものように朝食を済ませた後、散歩に出ることにした。

本当は、革命広場の「ホセ・マルティ記念館」に行きたかったのだが、アクセスの手間など考えるとかなり時間がタイトだ。キューバの公共交通機関は、時間どおりの運航がまったく期待できないのみならず、時間帯によってはスタッフが一斉に昼寝(?)してしまうことは既に経験済みである(汗)。

そこで、すぐ近くにある旧市街のカピトリオに行ってみることにした。しかし、正面階段を上りかけたところで、警備員らしき黒人のオジサンが、上の方から俺に向かって大きな×印を腕で作って寄越した。どうやら今日は、何らかの事情で入館できない様子だ。

仕方がないので、オビスポ通りを抜けて旧市街東部のフエルサ要塞に行こうかと考えたのだが、要塞は既にさんざん見て飽きている。

じゃあ、どこに行こうかと悩みつつ中央公園に差しかかったら、ちょうどT1バスがやって来た。よしよし、最後にもう一度、これに乗って新市街で遊ぶとしよう。

バスの入口で、「新市街を一周して帰ってくるだけだから」と言っておカネを払ったら、受付の奇麗なお姉さんはチケットをくれなかった。俺も、特に気にしないで2階席に座り、再び気持ちの良い海風に全身をさらすのであった。

今回は、「バスに乗ってウロウロするのが目的」の気楽さがあるので、沿道の名所をじっくりと余裕をもって眺めることが出来る。

バスは、マレコン通りに面した「アメリカ利益センター(大使館もどき)」の前を通ったのだが、なるほど、じっくり見ると、センターの建物の前には無数の高い旗竿が立てられている。これは何かと言えば、利益センター正面の電光表示板を隠すために、カストロ政権が林立させた旗竿なのである。

子ブッシュ政権のころの話だが、カストロ政権を憎むこの大統領は、ハバナ利益センターの建物に巨大な電光表示板を取りつけて、連日のようにカストロとキューバの悪口を流しまくった。激怒したカストロは、問題の電光表示板の前に無数の旗をビッシリと並べて、その表示を隠したと言うわけなのだ。

Mさんもキューバ市民たちも、「まるで子供の喧嘩だ」と呆れていたようだが、事態を客観的に見ると、これはアメリカ側が一方的に悪い。彼らは、ハバナの一等地を間借りさせてもらっているくせに、貸主であるキューバの悪口を流しまくるとは礼儀知らずも良いところだ。仮に、横田基地や横須賀基地のアメリカ軍人が、 日本の民主党政権や日本人の悪口を一方的に電光表示板で流しまくったとしたら、我々はどんな気持ちになるだろう?子ブッシュがキューバに対して行ったのは、まさにそういうことでる。それに対するカストロの対応は、確かにやや子供じみているけれど、なかなか理性的で冷静だったと評価して良いのではないか?

その後、穏健なオバマ政権が誕生してアメリカが悪質なプロパガンダを停止したものだから、電光表示板は取り外され、そして利益センターの正面に無数の旗竿だけが残されているのだった。

この例を見ても分かる通り、オバマ大統領は、前任の子ブッシュが超絶的にアホウだったために、いろいろと得をしているように思う。オバマが何をやらかしても、全て善政に見えてしまうのだ(笑)。

さて、バスはいつものように革命広場を抜けて「ハバナ・リブレ」の前を通りかかった。最後にもう一度だけ、この歴史的なホテルを見学したくなったので、ここでバスを降りた。

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さらばハバナ・リブレ

「ハバナ・リブレ」1階構内をウロウロして、革命の写真を見て回った。

そういえば2階フロアは未見だったので、螺旋階段を昇ってみた。そこには大広間を中心に各種宴会場が並んでいて、フロアの壁にはこのホテルを訪れたことのある海外の偉人たちの写真が並んでいる。

1973年に、アメリカの策略によって殺害されたチリ大統領サルバドール・アジェンデの写真を感慨深く眺めた。

カストロやゲバラの親友でもあったアジェンデは、南アメリカで初の社会主義政権を、合法的な普通選挙で実現させた人物である。そんな彼は、チリ国内に蠢く搾取体質のアメリカ資本に規制や弾圧を加えたために合衆国に深く憎まれ、その結果として殺害されたのであった。アジェンデは、日本では「悪い大統領だから自業自得で死んだ」などと誤解されているようだが、それはまさに、日本人がアメリカ発の悪質なプロパガンダによって洗脳された結果なのである。むしろ、アジェンデを殺して政権を簒奪したピノチェト将軍の方が、アメリカからは可愛がられていたけれど、よっぽど残忍で悪質な軍事独裁者だった。そのことはもはや公然の事実だが、日本人の多くはそのことに気付かずにいる。って言うか、ほとんど誰も興味を持っていない。なんとも、情けない話だ。

ちなみに、アジェンデは今でもチリの、いや、中南米世界全体での偉大な英雄である。もちろんキューバでも深く尊敬されていて、ハバナには「サルバドール・アジェンデ通り」があったりする。このように、中南米世界の常識は、しばしばアメリカや日本と逆なのである。そこが面白い。

興味深くホテル内を散策しているうちに、T1バスのチケットを貰い忘れたことを思い出した。わずか3ペソとはいえ、また買うのはもったいない。さて、どうやって旧市街に帰ろうか?せっかくだから、海岸沿いの名所を見ながら歩いて帰るのも一興だろう。

そう考えて、相変わらずの猛暑の中をマレコンまでの坂道を下った。カリブ海は、いつ見ても青く輝いて美しい。これも今日で見納めかと思うと無性に寂しくなった。

 

メイン号記念碑

マレコン通りまで降りると、ホテル「ナシオナル・デ・クーバ」の向こう側の中央分離帯に、無骨な黒鉄のモニュメントが立っているのに気づいた。そういえば、2日前にMさんから「メイン号記念碑」について教えてもらったのだが、このモニュメントがそれだろう。

大通りを行き来する車の列を抜けて、モニュメントに近づいて触りまくった。これは、海中から引き揚げた実際のメイン号の鉄の残骸を使って作られている。そのため、記念碑は太陽熱を吸収してすこぶる熱かった。

メイン号(スペイン語読みだとマイネ号)は、アメリカ合衆国の軍艦である。19世紀の終盤に活躍した小さな軍艦なのだが、実は20世紀以降の世界史の流れを決定的に変えた極めて重要な存在なのである。だから、ここに立派な記念碑となっている。

メイン号の何が重要なのか?それは、この軍艦が「アメリカ合衆国の攻撃的かつ侵略的な性質を形成したこと」である。具体的には、原因不明の沈没を遂げることによって。

時は、19世紀末の第二次キューバ独立戦争。マキシモ・ゴメス将軍に率いられたキューバ独立解放軍は、宗主国スペインと血みどろの死闘を展開しており、対岸のアメリカはこの情勢に深い関心を払っていた。アメリカの権力集団の中には、あわよくばスペインを追い払ってキューバを私物化したいと考える勢力がいた。

そんなアメリカは、とりあえず居留民保護の名目で、戦艦メイン号をハバナに出動させたのである。ところが、時に1898年2月15日、この軍艦はハバナ港で突然の大爆発を起こして轟沈した。アメリカのマスコミはこれを「スペイン軍による奇襲攻撃」だと決めつけ、世論を戦争へと誘導したのである。

もっともアメリカ政府は、最初のうちは「事故」として片付ける予定だったらしい。実際にこれは事故だったと思われる。この当時の石炭で動く軍艦は、石炭成分の揮発化と自然発火が原因で、こういった爆発事故を起こして沈むケースが多かった。ちなみに、我が国の戦艦三笠も、この種の事故でいったん沈没していたりする。

しかしながら、民主主義国家のアメリカは、戦争を望む国内世論に煽られて、結局は「リメンバー・ザ・メイン」を合言葉にしてスペインに宣戦布告したのである。これが「米西戦争」の勃発である。

これをスペインからすれば、「言いがかり」でいきなり攻められたのだからたまらない。すでにキューバ独立解放軍との戦いで疲弊しきっていたスペイン軍は、圧倒的なアメリカ軍の攻撃を前に、わずか3か月の戦いで壊滅した。そしてこの戦争の結果、アメリカはキューバ全土のみならず、スペイン領だったフィリッピン、グアム、プエルトリコをも占領し、返す刀でハワイも併合してしまった。そして、この「米西戦争」全体におけるアメリカ軍の損害は、わずか数百名であった。

アメリカ政府は、これを「輝ける小さな戦争」と呼んだ。無理もない。ほとんどコストをかけず、ほとんど損害も受けずに、カリブ海から太平洋全域に至るまでの広大な領土を一気に手に入れたのだから。これをギャンブルに譬えるなら、たまたま100円で買った宝くじで6億円が当たったようなものである。

この「大当たり」がきっかけで、アメリカは「戦争体質」の国になったのである。これは、生まれて初めてのギャンブルで有り得ないような大成功を収めた人が、その後の人生でギャンブル体質になってしまうのと一緒である。

そして、アメリカの権力集団は、「(嘘でもいいから)最初の一発を敵に撃たせる」手法が、国内世論を戦争に誘導する上で極めて有効であることをメイン号事件から学んだ。「真珠湾攻撃」(太平洋戦争の勃発)も「トンキン湾事件」(ベトナム戦争の勃発)も、この文脈で理解しなければならない。「9・11テロ」も、アメリカの自作自演説が未だに根強いが、歴史的に見れば決して無根拠ではない。

ちなみに、キューバ人は今でも「メイン号事件はアメリカの自作自演だった」と信じている。つまり、「アメリカは、スペインと戦争してキューバを支配したいがために、わざわざ自国の軍艦を撃沈した」というのだ。すなわち、ここにある記念碑は「アメリカの悪の象徴」なのである。

その当否はともかくとして、メイン号事件が起こらなければ、アメリカは戦争体質の国にはならず、従って、第二次大戦も朝鮮戦争もベトナム戦争も湾岸戦争もイラク戦争もアフガン戦争も起こらなかったかもしれない。あるいは、違った形で解決されていたかもしれない。すなわち、あんなに多くの生命や生活が犠牲にならずに済んだかもしれない。

そう考えながらメイン号記念碑を眺めていると、いろいろと感無量なのであった。

 

ハバナ空港へ

さて、相変わらずの炎天下の中、マレコン通りを東向きに歩き、途中で見かけたアントニオ・マセオ(ホセ・マルティやマキシモ・ゴメスと並ぶ独立戦争の英雄)の立派な銅像に挨拶などしつつ、旧市街に帰って来た。

すると、沿道の建物で作業中の左官たちが、作業の手を休めて一斉に口笛を吹き始めた。何事が起こったのかと焦ったが、何のことはない。彼らの前を、お尻の大きな女性が通りかかったのだ。キューバ人男性は、基本的に「尻フェチ」である。面相が少しくらいマズくても、尻がデカければ良いらしい。そして、「尻デカの若い女性」を見かけたら、口笛を吹いたり口説いたりするのを礼儀だと心得ているらしいから、さすがはラテン系である。

まあ、「尻フェチ」なのは生物的に正しい。尻がデカい女性には、元気で丈夫な赤ちゃんをたくさん生んでくれることを期待できるからだ。発掘された土偶などの女性像が、常に「尻デカ」の造形なのは、そこに子孫繁栄の願いが込められているのである。そういう意味では、キューバ人は非常に健康的である。

逆に言えば、メイドに萌えたり、綾波レイに萌えたり、アニメ武将に萌えたりする日本人って、実は心を病んでいるのではないだろうか?みんな一度、精神病院で精密検査を受けた方が良いのかもしれないぜ、マジで。

ちなみに、俺は「尻フェチ」である。意外と(?)健康なのである。もちろん、キューバ人と違って胸や顔にも興味が行くけどね(笑)。とか言いつつ、ロリコンもしっかりと兼任しているわけだが(汗)。

話は変わるが、中央市街から旧市街にかけて、「CDR」とペンキで大書された建物が何棟もある。「CDR」とは「革命防衛委員会」の略称で、これはスパイや裏切り者を摘発するために造られた自警団なのだ。アメリカが、「キューバでは常に市民生活が見張られており、盗聴や密告を受けている」と主張するのは、このCDRの存在を前提としているのだろう。

しかしながら、俺が見かけたCDRの建物は全て、崩落しかけた無人の廃墟だった。Mさんに聞いた話によると、CDRが機能していたのは、アメリカがキューバに執拗なテロ攻撃を仕掛けて来た80年代くらいまでで、それ以降は単なる「町内会」になっているのが実態なのだそうな。そして、その町内会さえ行う必要が乏しくなり、それでCDRの建物が無人の廃墟となっているのだった。

キューバを「残忍非道な警察国家」だと未だに思い込んでいるアメリカ人は、ぜひこの実情を自分の目で見に来るべきだろう。何事も、思い込みと偏見は良くないよ。

などと考えつつ、11時にホテル・プラサに帰って来た。

部屋で荷物を纏めているうちに、最後にもう一度、中央広場に面した美味なスパゲティを食してみたくなった。そこで、チェックアウトを済ませてから、荷物を抱えて店に向かった。

レストランは12時ちょうどの開店だったので、お店の前でしばらく時間を潰していると、タクシーの運ちゃんの営業攻勢が物凄くウルさい。

キューバは社会主義の国なのに、商売熱心の人がそれなりに多いのだから面白い。考えてみたら、社会主義のキューバ人の方が、資本主義でEUのポーランド人よりも営業熱心でおカネにウルさいのは興味深い事実である。長い歴史によって培われた国民性は、イデオロギーの壁を超越するのであろう。

さて、時間になったので、イタリアン・レストランに入った。2日前に会った純朴なウェイトレスなどに挨拶しつつ、クリスタル・ビールとツナトマトスパゲティを注文した。

クリスタルは、バハネロより薄味で、ちょっとバドワイザーっぽかった。これは、失敗である。

しかし、スパゲティは超絶的美味であった。ツナトマトスパゲティは、基本的にはカプリチョーザ名物「ニンニクとトマトのスパゲティ」にツナが入ったものだ。ところが、ツナだけじゃないのである。蟹身と蟹ミソがたっぷりと入っているのである。こんな贅沢なスパゲティ、食べたことがない。おそらく、過去の人生で食べた中で最高のスパゲティだ。この味のために、もう一度キューバに来ても良いくらいである。

だけど、料金は良心的で、全部で10ペソ(約1000円)程度だった。

「美味かったなあ」と感激に浸りつつホテル・プラサのロビーで待っていると、13時ちょうどにルイスさんが現われた。一瞥以来の挨拶など交わしつつ、韓国製の自動車で空港へと向かう。

 

さらばキューバ

さて、饒舌なルイスさんは、今日は車内で愚痴モードであった。「子供はいいよなあ。悩みが無くて。私も子供に戻りたいよ」とか、「キューバ人は、働かないから貧乏なんだ。みんな、もうちょっと頑張って働けば豊かになれるはずなのに」とか、ずっとそんな調子である。何があったのだろう?(笑)

俺が、市内でMさんにガイドしてもらったことを告げると、ルイスさんは彼女のことを(日本語が通じるような狭い世界だから当然)知っていたので、噂話に花が咲いた。

ともあれ、サルバドール・アジェンデ通りは空いていたので、かなり余裕を持ってホセ・マルティ国際空港に到着した。俺はさすがに、今回はルイスさんと運転手さんにチップを渡すことを忘れなかった。そのせいかは知らないが、ルイスさんは空港の構内まで、俺の荷物を持って付いて来てくれた。・・・暇なのかな?

そんなルイスさんは、「今度キューバに来る時は、Mさんじゃなくて、私に直接連絡をください。私の家に泊めてあげるし、私がガイドするから」と言う。うわあ、イスタンブールのラマザンっぽい。

そういえばラマザン氏とは、半年前に東京で一緒に飯を食った。彼は、絨毯の営業で定期的に来日するのである。ただ、真面目なイスラム教徒であるラマザンは豚肉を食べられないので、適当なレストランを探すのに苦労したのだったが。そのときの話では、並希さんもメフメットさんもフェイヤスさんもメスートくんも、みんなトルコで元気でやっているらしいので何よりだ(「トルコ旅行記」参照)。フェイヤスさんは、なんと俳優になったらしい。メスートくんは、学校を卒業してガイドになるらしい。並希さんは、相変わらず何だか良く分からない立ち位置でラマザンの商売に協力しているらしい(笑)。そのうち、みんなに会いに、またイスタンブールに行きたいものだ。

さて、ハバナ空港に話を戻そう。ルイスさんのことは嫌いではないけど、いつまでも所在なく隣にいられても居心地が悪いので、さっさとチェックインすることにした。

ルイスさんに別れを告げて、出国カウンターに出国カードと空港利用料の領収書を提出した。これで問題なく出発ロビーに入れるはずだ。ところが、係官の黒人青年は早口のスペイン語でモニターを指さして何か言いまくって、俺を通してくれないのだ。いったい、これは何のトラブルだ?

困りつつ、何気なくロビーの方に目をやると、ルイスさんがまだウロウロしていた!これぞ、天の配剤である。キューバ人は基本的に暇な人たちなので、大いに助かる。そこで、大声でルイスさんを呼んでこっちに来てもらった。彼に通訳してもらったところ、どうやら何らかの機械の支障で、出国カウンターのモニターが俺の眼紋を読み取れないらしい。係官が「1時間後に来れば問題ない」と言うので、仕方ないからロビーで1時間潰すことにした。どうやら、俺がカウンターに来るのが早すぎたということらしい。

ともあれ、ロビーで改めてルイスさんにお礼を言うと、さすがの彼もいつまでもウロウロしているのも難だと思ったのか、手を振りつつ去って行った。ラマザンのように、ルイスさんとも再会する日が来るだろうか?

さて、暇つぶしに空港構内の雑貨屋を見て回ると、雑誌コーナーに「フィデルとチェの深い友情」という本があったので、この英語版をVISAカードで買うことにした。しかし、この店の端末では俺のカードが読み取れなかった。おかしいな。キューバでは、アメックスなどの米系資本のカードは使えないだろうけど(経済封鎖だから)、VISAカードはヨーロッパ系だから問題ないはずなのに。

お店の白人オバサンは執念深い人で、「ATMでキャッシュを降ろせばいいのよ!」とか言いつつ、わざわざ俺を店から遠く離れたATM機の前まで誘導したのだが(商売熱心だね)、ここでもカードが機能しなかったので、結局、ここで本を買うことは諦めた。

それにしても、こういう事態が起きると不安になる。まさかとは思うが、何者かにカードを悪用された結果、残高ゼロになっていたりするのじゃなかろうか?イスタンブールで、似たようなトラブルに遭ったことを思い出した。

不安を感じつつも1時間経ったので、再び出国カウンターに行ったら、係官が今度は問題なく通してくれた。

カンクン行きの出発ロビーをウロウロすると、そこの雑貨屋でも「フィデルとチェの深い友情」を売っていた。やっぱり欲しいな。そこで、財布の中を隅々までチェックしたところ、小銭を合わせればギリギリ足りることが判明した。なんだ、カードを使う必要無かったじゃん。俺がこの本の英語版を指さすと、売り子の奇麗な白人姉さんは大喜びだった。若いのに、革命シンパなのかな?こういう人も、まだこの国には大勢残っているのだろうか?

ともあれ、カストロとゲバラの2ショット写真満載の本は、2人が遺した名言がビッシリと書かれた見事な内容だったので大満足である。後は、これがアメリカの税関で見つからないことを祈る。

やがて、搭乗手続きが開始された。

さらば、キューバ。また会う日まで。

 

カンクン

16時50分発のメキシカーナ航空便は、1時間ちょっとでメキシコのカンクン空港に着いた。今日は、飛行機待ちの都合上、同地に一泊しなければならない。

空港ロビーでは、山崎さんという40年配の男性が待っていた。海外旅行先で、日本人の送迎員さんに逢うとは珍しい。真っ黒に日焼けしたこの人は、若いころからメキシコ好きで、ずっとこっちに移住しているのだという。こういう生き方も、ナイスかもしれぬ。俺も、会計士とか税理士の仕事に縛られていなければ、チェコやトルコに移住するという人生の選択肢もあったはずだが。

俺が、「まずは両替所で円をメキシコドルに替えたいんですが」と言うと、山崎さんは「もう空港の両替所は閉まっていますよ」と、笑顔で応えた。

なんだと!?

いくら観光のオフシーズンとは言え、まだ18時台だというのに、このやる気の無さはどういうことだ。キューバよりよっぽどダメな国じゃないか、メキシコ。

これは、いきなり深刻なトラブル発生である。VISAカードが機能しないかもしれぬ状況で、現地通貨を使えないということは、メキシコでの俺の生活が成り立たなくなるではないか!

だけど山崎さんは、「運転手さんに、ちゃんとチップを払ってくださいね」とか無造作に言ってくる。チップどころか、1メキシコドルも持っていないよ。そこで、山崎さんにお願いして、彼に1000円をメキシコドルに両替してもらった。本当はもっと両替して欲しかったのだが、彼にあまりキャッシュの持ち合わせが無かったので1000円が限度だった。

わずか1000円相当じゃ、運転手にチップを払った残りは500円程度しか残らない。このハシタ金で、いったい何をしろと言うんじゃ。

山崎さんにカードのことを相談すると、「キューバのみならず中南米世界全域で、時々カードが端末で読めない現象が起きる」と説明された。まあ、後進的な世界だということか。ともあれ、ホテルの近くでATMをもう一度試してみよう。

メキシコ人の運ちゃんが運転する韓国製のライトバンは、奇麗に舗装された立派な大通りを走った。道は、意外と混んでいる。周囲のヤシの木は目に優しいのだが、キューバと違って沿道の商業広告がケバケバしい。なんだか、とっても下品である。

カンクンは、「観光リゾートに特化した街」であるから、ホテルなどの観光施設が至る所に立ち並んでいる。逆に、観光以外の生活臭はまったく感じられないから、ただひたすらに人工的で無味乾燥である。

「なるほど、資本主義とはこういうことなんだな」と、改めて痛感した。

やがてライトバンは、Q-BAYホテルに到着した。ここは、名前のイメージと違って平屋の地味な建物だった。

温泉旅館風の地味なフロントでチェックインを済ませた後、山崎さんは「明日の朝5時に迎えに来ますから!」と言い捨てていなくなった。

・・・朝5時まで、500円で過ごせってか?

 

寂しい晩餐

さて、Q-BAYホテルは平屋の地味な建物で、ルームキーも昔風の鍵穴型で、案内された部屋はコテージ風だった。システムキッチンが付いた2LDKタイプで、ベッドや簡易ベッドが全部で5つもある。ここはどうやら、若者グループの大挙襲来を想定して作られた部屋らしい。

Q-BAYが、オフシーズンになってガラガラなので、空室率を減らすために大幅に値下げをかけたところに、我が旅行会社が予約を入れちゃったってところだろうか。広くてアットホームなのは大いに結構なのだが、俺一人で寝るには寂しすぎるな。

寂しいので、散歩がてら夕飯の買い出しに行くとしよう。

送迎の山崎さんは「バスで通える範囲にデパートや飲み屋街がある」と教えてくれたのだが、こちとら先立つ物を持ってない。っていうか、バス代を払ったらその時点で一文無しになるだろうから、ここは近所のコンビニのお世話になるしかないのである。

とりあえず、ホテルの裏庭に出た。この裏庭の様子はコテージの窓からも見えるのだが、蒼いカリブ海が一望に出来て素晴らしい。午後7時でも十分に明るいので、この小さな砂浜でブラブラしたり、デッキチェアに寝転んだりして遊んだ。海岸を行きかう若者たちの姿は、オフシーズンだけに疎らである。

この砂浜に隣接して大きなヨットハーバーがあり、金持ちの所有と思われる立派なヨットが何艘も泊まっていた。ここが、同じカリブ海の景色でも、キューバとは大きく違うところである。

Mさんの話によれば、メキシコの華やかさは、観光客向けの都市部だけの話らしい。貧富格差が激しいこの国では、山間部の僻村などに行ってしまうと、幼い子供たちが普通に乞食や売春をしているのだそうな。なるほど、「闇の子供たち」の世界だ。

Mさんはメキシコの山間部で、実際にそういった子供たちの姿を見てから、キューバ革命の理想に共感するようになったのだとか。彼女は、それまではカストロの長い演説とか、キューバ人の甘ったれた生活態度が嫌いだったらしい。

確かに、キューバでは全国民が完全に平等で、しかも配給制が完備されているのだから、幼い子供が生活のために乞食や売春や臓器販売をする必要はないだろう。一つの社会の中での子供全体の幸福を考えるなら、キューバ型社会主義は非常に優れていると言えるのだろうな。もしかすると、今の日本よりも遙かに。

さて、ホテルの正面に出て、大通りをブラブラ歩く。山崎さんに、コンビニの場所について大ざっぱに教えてもらっていたので、そこを目指すとしよう。大通りには、(キューバと違って)高級な新型車がひっきりなしに爆走しているし、横断歩道も少ないから、道の反対側に渡るのがたいへんだ。やがて、道の両脇にコンビニを一軒ずつ見つけたのだが、どちらの店でもATM機でおカネを降ろすことは出来なかった。しかも、どちらも現金払いじゃないと買えないシステムだったので、悩んだ挙句、ドーナツとアイスティーを500円相当のメキシコドルで買った。これで俺は、晴れて一文無しというわけだ(泣)。

周囲も暗くなって来たので、ホテルの部屋に帰って寂しくドーナツを食べた。なかなか美味かったのだが、夕飯がこれじゃあねえ。お昼の超絶的に美味かったスパゲティが恋しいな。

このドーナツは、俺の海外旅行史上、最も貧しい晩餐となるであろう!・・・ことを祈る(汗)。

フロントの前をウロウロして、簡易レストランのメニューに並ぶタコスやコロナビールの文字を恨めしげに睨んだ。せめて、コロナくらい飲みたい気分だが。

いじけ心を抱えつつ部屋に帰り、複数のベッドの上をゴロゴロしつつ読書をしているうちに眠くなったので、目覚ましを深夜に合わせて仮眠した。

どうして深夜に起きるのか言えば、時差を考慮した上で、日本のカード会社に電話するためである。VISAカードに、何かトラブルが起きたかどうか確認しなければならない。

首尾よく深夜に起きて、フロントのオジサンに頼んで電話をかけさせてもらった。しかし、なぜか繋がらない。オジサンの話(英語)によると、メキシコ側のオペレーターのトラブルであるらしい。仕方ないので、自分のVISAカードを用いて公衆電話でかけることにしたのだが、やはり繋がらない。俺の操作が悪いのか、それともカードのトラブルのせいなのか。

ますます不安になったので、部屋に帰った上で、苦肉の策として携帯電話を使うことにした。通話代を考えると、物凄く不安である。だが、今度は問題なくカード会社に繋がった。事情を説明すると、オペレーターのお姉さんは、調べた上で向こうから掛け直してくれた。さすが、日本のサービスはハイレベルである。

それによると、キューバとメキシコでカードを使えなかったのは、両国側の機械エラーのせいであった。また、ATMでおカネを引き出せなかったのは、俺が暗証番号を間違って覚えていたせいだと判明した(苦笑)。なんだよ、カードそのものは無事だったんじゃん。

拍子抜けしつつも、ようやく安心したので、そのまま寝た。