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9月4日水曜日 プラハ市内観光2

今日は、プラハ観光の2日目である。

絶対に外せないのはユダヤ人街、旧市街庁舎、国民博物館、ジシコフの丘の4箇所である。ただ、時間さえ許せば、バスでプラハ北郊のテレジーン村に行ってみたいと考えていた。そこは、第二次大戦中に大勢のユダヤ人が殺された強制収容所跡なのだ。俺は、せっかく東欧に来るのなら、強制収容所くらいは行ってみたいと前から思っていたのである。

というわけで、6時30分にほぼ同時に起床した我々は、またもや美味いバイキングを腹いっぱいに詰め込んで出かけることにした。二人とも、とりあえずホテルのロビーで1万円を両替したところ、2,400コルナになった。空港よりもレートが有利だったのは不思議だが、おそらくは為替相場が大きく変動した結果なのだろう。何にせよ、得した気分だ。

俺は、プラハの都市交通網の全体の現況が分かるような表が欲しくてロビーの姉ちゃんに問いかけたのだが、あいにく、このホテルはそういう表を用意してはいなかった。ただし、口頭で「観光に便利なトラム路線」の番号についていくつか教えてもらった。

そこで、アンジェルから「9番トラム」に乗ってみることにした。これは川の西岸を北上し、やがて軍団橋で渡河してテスコの前に出る路線であった。我々は、通勤ラッシュ(日本に比べたら大したことないけど)の中をテスコまで乗ってから徒歩に切り替えた。やはり、通勤の時間帯は人通りがせわしい。それでも、北上して旧市街に入ってしまうと、人影はまばらになる。観光客が来るにしては、時間帯が早いからだろう。我々の第一目標は、旧市街広場だ。

途中で、聖ハヴェル教会の前を通ったのだが、あいにく修復中だったので美観は壊れていた。それから、ハヴェル通りの有名な野菜市場を見に行ったのだが、あいにく開店の準備中で、大勢のオジサンやオバサンが品物を店先に並べたりして大忙しだった。その喧騒の中をウロウロしていると、通りの南側に「田村」という日本料理屋を発見。これは、プラハでは有名な日本レストランで、グルメグランプリに輝いたこともあるという。店の入り口には、和服姿の日本女性の写真があったりするのだが、チェコ人は、きっとこういうのに惹かれるのだろうな。

さて、あまり寄り道ばかりもしていられない。さらに北上して旧市街広場に到着。昨日見かけたコンサートの設営機材は、すっかりそれらしい形で設置が完了していた。やはり、ロックかポップスのコンサートだろうと思って、情報を求めて周囲を歩いたが、特にポスターなどは見当たらなかった。

 

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それから、広場に面した立派な宮殿や教会を外から見学して回り、次の進路を東に取った。俺は、実を言うと、歩きながら次の目的地を模索していたのである。何も知らない加賀谷は、俺を信頼して黙って後ろからついてくる。ううむ、最初はどこに行こうか。

こう書くといい加減に見えるだろうけど、プラハという街は本当に素晴らしいところなので、頭を空っぽにして散歩しても楽しくて仕方ないのである。むしろ、ずっと何も考えずに歩き回りたいくらいだ。

土産物屋やレストラン街を抜けると、コトヴァ・デパートが建っている。「後で、ここで土産物を買おうぜ」と友人に声をかけると、現在地が良く分からぬ加賀谷は、黙ってうなずくのみであった。デパートの前を過ぎると、共和国広場に到着した。この辺りは、昔、城壁だったところである。壁を壊し、堀を埋め立てて、道や広場をつけたのだ。

そこで、俺は閃いた。最初にレトナー公園に行って、それからユダヤ人街を散策し、次に旧市街庁舎の展望台に登り、次に国民博物館かテレジーン村に向かうコースで行こう。

というわけで、共和国広場から進路を北に変え、ヴルタヴァ川を目指した。この川は、市街を南から北へ縦貫する形で流れているのだが、ユダヤ人街のあたりから、その流れを急に東へ変えるのである。つまり、プラハ市の中心部は、ヴルタヴァ川に左から上にかけて二面を囲まれているような地勢なのだ。洪水の被害が深刻だったのは、そのためである。

我々は、かつては堀と城壁だった通りを北へと進み、やがてヴルタヴァ川(ここでは、西から東へと流れている)に出た。そこで進路を西に変えて、川沿いにユダヤ人街を目指す。この道の途中にアネシュカ修道院があったと思うのだが、ちょっと奥まったところにあったためか、気づくことが出来なかった。

この沿道は、いたるところで道路工事をしていて歩きづらかった。遊覧船乗り場も閑散としていて、営業はしていないようだ。いずれも、洪水の後遺症であろう。

我々は、やがてインターコンチネンタルホテルの前でパリ大通りに出た。俺は、そこで右折し、進路を再び北へと変えた。加賀谷は、文句を言わずについて来るから偉い。

大きな自動車橋(チェフ橋)で川を北に渡ると、そこには大きな緑の丘があった。これがレトナー公園だ。ぺトシーン公園と同じく、自然の丘を公園に改造したものである。急な階段をいくつも登ると、ようやく丘の上に出た。そこにはかつて、巨大なスターリンの銅像が建っていたのだが、取り壊されてから久しい。その跡地にはクレーン車が止まり、何やら大規模な工事の途中のようだ。ハヴェル大統領の銅像でも建てるつもりなのだろうか。

この場所の背後には、実に大きな緑の公園が広がる。ロンドンのハイドパークを髣髴とさせる明るい雰囲気の公園だ。犬を連れて散歩する人がいたり、ジョギングをする人もいる。ここレトナー公園の丘は、丘といっても市街中心部から見たら高いところにあるというだけの話で、いったん登ってしまえば、その後背地はずーっと平地が続くのである。つまり、市街中心部の方が、川沿いの低い谷間に置かれていると考えた方が正解かもしれない。

明るい緑の公園をしばしば散歩すると、やがて西のはずれに自動車道が見えてきた。そこを行きかうトラムは、初日に使ったX-Aではないか。

「なんだ、ここに出るのか。よしよし、トラムで旧市街に戻るぞ」と友人に言うと、彼は状況が良く分からずにポカーンとしていた。まあ、無理もない。住んでもいないくせに、これほどまでにプラハの地勢に詳しい俺のほうが異常なのだから。

俺は、3年前にチェコを訪れて以来、ほとんど病的な「チェコマニア」になっていた。暇なときは、プラハで買ってきたチェコ全土の地図帳を開いては、ぼーっと2時間くらい眺めることが日常茶飯事で、プラハの地勢についても、完全に脳内にインプットされてしまっていたのである。下手をすると、現地の人よりも詳しいかも分からない。

逆にいえば、そういう狂人系の変態に引率(?)される加賀谷くんは、たいへんな幸運児だったわけだ。

さて、トラムX-Aで丘をくだり、ほどなく花壇に覆われたマラーストランスカ地区に到着。このまま乗っていると城の方(西)に右折してしまうので、加賀谷をうながして飛び降りた。

それから、広壮なヴァルドシュテイン宮殿を尻目にマーネス橋で川を東へ渡り、旧市街のルドルフィノム(芸術家の家)の前に出た。加賀谷はこの建物が大いに気に入ったらしく、しきりに写真を撮っていた。また、ここからのプラハ城の眺めも最高に美しいので、二人でしばしデジカメタイムに突入したのであった。

次の目標は、ユダヤ人街である。ここに行くには、ルドルフィノムから少し北上すれば良い。ここは、いくつもの中世のシナゴーグが、ユダヤ人の生活を展示するとても貴重な博物館になっているのだ。もちろん、ナチスの暴虐に関する展示もあるので、その充実度いかんでは、テレジーン村行きを諦めても良いのだが・・。

ところがどっこい。ナチス関連の展示場であるピンカスシナゴーグが、洪水のせいで「閉鎖」になっているではないか。これは、とても残念だ。今回の旅行で初めて、洪水に祟られたというわけだ。諦めて、旧新シナゴーグやマイゼルシナゴーグ、儀式の家などの貴重なユダヤ人施設を外から見学した。これらの施設は、共通チケットで入館できることになっているのだが、ピンカスシナゴーグに入れないのでは、中途半端でもったいない。そこで、加賀谷と相談の上、外からの見学で済ませることにしたのである。

ところで、どうしてプラハにこんなにユダヤ人の文化財が残っているかというと、この街を征服したヒトラーが、プラハ・ユダヤ人街を「絶滅したユダヤ人の記念博物館」として後世に残そうと考えていたからである。結局、ユダヤ人は絶滅せず、今でもこの街を懐かしんで訪れるイスラエル人が跡を絶たないらしい。なんだか、皮肉な話である。

さて、ぶらぶらと南下して、またもや旧市街広場に出た。次の目的は、旧市街庁舎からの展望である。この庁舎は高い尖塔を持っているが、その中に作られたエレベーターで、この素晴らしい広場を上から一望して見たかったのである。

その途中で、広場の真ん中のコンサート設営場所に行ってみると、舞台の前面一円に鉄柵で広く囲いがしてあった。聴衆は、その中で音楽を聴くことになるようだ。でも、ここは屋外なんだから、柵の外からでも聴けちゃうぞ。ポスターが貼られていたので、ようやくこのコンサートの概要を掴むことが出来た。なんと、プラハ交響楽団のフルオーケストラの演奏会だ。もしかして我々は、すごい幸運なのかもしれない。「夜8時から」という文字を脳裏に焼き付けて、我々は旧市街庁舎の前に立った。

ところがどっこい。洪水のせいで、この市庁舎は見学禁止となっていた。また、ちょうど10時だったので、有名なカラクリ大時計がパフォーマンスを始めたところ、なんだか間の抜けた動きを見せる。しかも、途中で係員が時計の横から身を乗り出して点検を始めた。どうやら、時計自体が故障中で、人力でカラクリを動かしているらしい。だいたい、時計の時刻表示からして狂っているのだ。カラクリを楽しみに時計の前に集まっていた大勢の観光客は、我々に負けず劣らずがっかりしていた。

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市庁舎の壁に貼られた英文の紙によれば、洪水のせいで、時計自体が機能不全であるらしい。ちょっと考えにくいのだが、機械室が地下に作られていたということなのだろうか?何しろ、15世紀に作られたものだから、「洪水で壊れる時計塔」のイメージがなかなか沸かない。

ともあれ、洪水のせいで2度までもプランを潰された俺は、意気粗相状態に陥った。次はどうしようかと考え始めたとき、加賀谷が「カフカの生家」に行ってみたいと言い出した。おお、とうとう自己主張する気になったか。そこで、旧市街広場の外れに位置するカフカの家に向かった。しかし、ここもどういうわけか閉鎖されていた。またもや洪水の仕業だろうか?

しばらくは「どうしよう」と二人で言い合った。

だが、俺はついに「テレジーン村突撃作戦」の発動に踏み切った。そのためには、プラハ東郊のフローレンス・バスターミナルに行かなければならない。なぜなら、テレジーンには鉄道が通っていないから、バスで行くしか手段がないのだ。

そこで、再びティーン教会の横を通ってコトヴァ・デパートの脇から市民会館の前へ出た。ここから、さらに東へ押し出さなければならない。そこで、たまたま走ってきた東へ向かうトラムに飛び乗った。しかし、こいつは次の角で進路を南(右)に変えおった。ううむ、失敗じゃあ。そこで、次の駅で飛び降りると、たまたま国鉄マサリク駅の前だった。おお、懐かしい。3年前、道に迷ってウロウロしたことを思い出すぜ。たまたま二人とも尿意を感じていたので、これ幸いと駅のトイレ(有料)で用を足した。

マサリク駅は、チェコ国内行きのローカル路線が発着する駅である。しかし、驚いたことに、設備面で3年前よりもグレードアップされていた。例えば、発着案内表示に、3年前には無かった電光掲示板を使用していた。やっぱりこの国は、観光客向けの見栄とかそういうのではなく、本当の意味で全てが向上しているのだ。加賀谷は、この駅も気に入ったらしく、しきりに写真を撮っていた。確かに、鉄道駅とは思えないお洒落な建物だしな。

二人は、いろいろな意味で大いに感心しつつ、駅を出て進路を東に向けた。

「この洪水は、新手のスタンド攻撃か!?」「貧弱貧弱うー」「無駄無駄無駄あー」(漫画『ジョジョの奇妙な冒険』参照)とかアホウなことを言いながら、地下鉄フローレンツ駅の前まで来た。この近くに目指すバスターミナルがあるはずなのだが、どうやらこの辺りは洪水被害が大きかったところらしく、あちこちで兵隊や土木作業者が復旧作業に当たっている。どうも、嫌な予感がするぞ。

廃墟のような有様になった街路を、兵隊たちの邪魔にならないように歩きながら捜し歩いた。やがて、いくつもの「工事中」の壁に囲まれた一角に到着。認めたくないことだが、これこそが目指すバスターミナルの残骸であった。壁には、数ヶ国語でいくつもの張り紙がしてあったが、それによると、ここを基点としているバスについて代行路線が出ているが、その詳細について知りたければ、どこそこに電話しろと・・・。ううむ、いくら俺でも、電話器を通して外国語で用件を伝え、しかも相手の指示どおりの行動をとる自信は無い。ここは、男らしく諦めるしかないだろう。

しかし、洪水の影響は、旅行2日目にしてようやく猛威を振るいはじめたというわけだ。これで、「ナチスとユダヤ人」がらみの勉強が、まったくの「お預け」になってしまったのがとても残念である。

しかし、俺は、転んでもただで起きる男ではない。ウロウロしている最中に目に留まった道路標識に、「ジシコフ」とあったので、次はそちらに向かうことにしたのだ。事情が分からぬ加賀谷は当惑していたが、ジシコフの丘は、当初からの目的地の一つだった。道路標識によれば、フローレンスからジシコフに行くためには、旧市街方面に戻るのではなく、そのまま東へと歩き続ける方が早いようだ。そこで、荒れ果てた街路を二人でズンズンと東へ向かって歩いた。

それにしても、この周辺の洪水被害は物凄い。沿道の建物は、ことごとく一階部分が全壊状態になっていた。バリバリに割れた窓の内部は、汚泥と残骸の渦である。

プラハは、歴史の中で何度も洪水に見舞われているので、歴史の古い地区は、全て大規模な地盛りを施されて洪水対策は出来ていたはずである。しかし、この地区はプラハの中でも比較的新しい部類に入るので、地盛りが間に合わずに低地となっており、それだけ洪水の損害を強く受ける羽目になったのではないだろうか。同じことは、河川敷に作られた動物園にも言える。あの動物園が甚大な被害を受けた理由は、ここフローレンス地区と同じなのだろう。

ただ、洪水跡であるにもかかわらず、周囲から悪臭がまったくしないのが印象的だった。これが東京なら、洪水跡はヘドロまみれとなり、とてつもない悪臭に満ちていたことだろう。疫病も流行し、行政の責任者は責任の擦り合いを始めることだろう。さすがにヴルタヴァ川は、チェコの人々に愛される本当に綺麗な川だったのだなあ。

それにしても、復旧作業に当たる警察官と兵隊たちの間には、まったく悲壮感が感じられない。みんな笑顔を交わしながら、元気いっぱいに作業をしている。警官と兵隊が仲良く協力しながら作業する様子は、官僚機構が無意味に分立している日本では、永遠にお目にかかれない光景だろうか。

そういえば、この洪水では、あれほどの大惨禍であったにも拘らず、人名の損失はわずかに10名であった(もちろん、亡くなった人たちは気の毒だが)。だからこそ、みんな陽気に作業をしていられるのかもしれない。行政の優秀さの賜物である。

また、一般のプラハ市民たちは、作業を国任せにして、自分たちは普通の市民生活をしているのが興味深かった。これが日本なら、市民のボランティアが大挙して押し寄せているだろうに。だからといって、チェコ人を「薄情」と決め付けるのは間違いだろう。彼らはきちんと税金を納めているのだし、しかも政府の能力を高く信頼しているからこそ、本来、国がやるべき復旧作業を傍観しているのだと思う。逆に日本の場合は、政府が無能であることを国民が良く知っているからこそ、「任せてはおけない」とばかりにボランティアが頑張るのではないだろうか。だとすれば、チェコの方が「在り方」として正常だと思う。事実、警官や兵隊たちは、元気いっぱいにバリバリと効率的に仕事に勤しんでいるから、市民のボランティアが介在する余地はなさそうだった。

3年前、プラハ市内のいたるところに手ぶらの兵隊がウロウロしていて、いかにも「暇そう」だったのを思い出す。彼らはむしろ、仕事が出来て退屈から解放されて喜んでいるのではないだろうか。3年ぶりに見るチェコの兵士たちは、相変わらず緊張感の無い優しい目をしている。若い女性兵士も大勢いて、作業をしながら楽しそうに談笑している。こんな能天気な兵隊で、例えばテロや戦争といった「有事」に対応できるのだろうか?ひとごとながら、ちょっぴり心配になった。

さて、廃墟の中を歩いていると、右手の方角(南)に小高い緑の丘が見えてきた。これがジシコフだろうと判断して進路を右に取って進むと、やがて眼前に目指す丘が聳え立った。意外とでかい。ここは、拙著『ボヘミア物語』で中盤のクライマックスとなった古戦場なのである。小説の中では「小さな丘」と描写してしまったので、もしかすると修正の余地があるかもしれぬ。とりあえず丘に登ろうと思ったのだが、入り口の場所が分からない。地図を見て適当に見当をつけながら、丘のふもとに沿って進路を右(西)に取ったところ、高速道路や鉄道の高架線をいくつか抜けたところに、ようやく小さな登山道を発見。この丘は観光地ではないので、案内板すら出ていなかった。

俺と加賀谷は、構わずに登山道に突入した。すると、少し上ったところにソ連のT34戦車を発見した。その隣の大きな建物が、どうやら「陸軍博物館」であるらしい。加賀谷は、俺が軍事オタクだったことを思い出して、「行かなくて良いのか?」と聞いてきた。俺も、食指が動かないではなかったが、こういうのは昨年のウイーンで見ている。もっとも、入り口に飾られているのが、例えばチェコ製の38t戦車とかだったなら、行く気になったかもしれない。でも、T34じゃあ、いまどき珍しくもないしなあ(マニアならではの発言)。「どうせなら、プラハ城の横の『軍事史博物館』に行きたいから」と加賀谷に言い捨てて、俺は構わず山道を登ったのであった。

誰もいない丘を、汗を流しながら登りきると、そこには巨大な灰色の建物が威容を見せていた。これは、19世紀に作られた民族記念碑である。フス派戦争のとき、この丘でチェコ軍が異端撲滅十字軍を撃破したことを称えて建てられたのだ。その戦い(ヴィトコフの戦い、1420年)について知りたければ、拙著『ボヘミア物語』か「概説チェコ史」を参照するのがベストだ。いや、マジで。

その戦いの立役者であるヤン・ジシュカ将軍の騎馬像が、記念碑の前に屹立していた。全高3メートルはあるだろうか?意外と立派だったので、その周囲を回りながらデジカメを動員したのである。いやあ、今回の旅行目的が、ようやく本格的に達成できる状態になってきたぞ。午前中は、さんざんだったのだが。

 

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それにしても、プラハの地勢は、ローマに良く似ている。

ローマ市は、7つの丘に囲まれたテヴェレ川沿いの街である。川は灌漑や輸送に不可欠だし、丘は防衛拠点や避難所にするのに不可欠なのだ。

プラハ市も、4つの丘に囲まれたヴルタヴァ川沿いの街である。西はぺトシーンの丘、北はレトナーの丘、東はここジシコフの丘、そして南はヴィシェフラトの丘。ってことは、我々は滞在2日目にして、4つの丘を全て訪れたことになるわけだ。これって、隠された快挙かも。こういう立体的な視点で街を俯瞰するのも楽しい。事実、この丘から見下ろすプラハは、いくつもの丘に抱かれているように見えた。

そういえば、もう昼の12時だ。そろそろ飯を食わねばならぬ。加賀谷と相談して、国民博物館やヴァーツラフ広場方面に進路を変えることにした。そこで、陽光に照らされた記念碑から、ゆっくりと階段を下った。

すると、丘の途中のベンチに肌の黒い若い男性二人組が座っていて、我々に何やら話しかけてきた。一人がいうに、「私の友人が、お金なくて困っているので、100コルナください」。俺は「持っていない」と答えると、そいつは「じゃあ、せめてタバコをください」と返しおった。俺は「持ってないよ」と答えて、加賀谷をうながして足早に丘を下った。どうも、ああいう奴らは信用できない。言葉とは違う目的を隠しているかもしれない、と加賀谷に説明した。

さて、無事にジシコフの丘を降りた我々は、進路を西南にとって、いくつもの鉄道や自動車の高架線をくぐり、やがて国鉄主要駅の前に出た。ここは、プラハで最大の鉄道駅である。加賀谷の「水飲みたい病」が始まったので、我々は駅構内に入り、売店で喉を潤した。加賀谷は水(今回は、ガス無しをゲットに成功)で、俺はアイスティーだ。俺は、ヨーロッパのアイスティーが大好きなのだった。

次の予定はどうしようかと思いつつ、あまり空腹でもなかったので、そのまま国民博物館に突入することにした。博物館は、主要駅からすぐ南である。この周辺にはパトカーが妙にウロウロしていたのだが、やはり洪水復旧関係の仕事なのだろうか。

ああ、ついに3年越しの夢がかなうのだ。俺は、この博物館に行きたくて仕方なかったのだが、前回は時間帯が合わなくて断念したのだった。

ヴァーツラフ広場の南端に位置するこの荘厳な博物館の建物は、東京の国立博物館に良く似ている。まあ、日本の方がパクったのに違いないのだけど。

 

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中に入り、受付で「二人で1枚」のチケットを買い、荷物はクロークルームに預けた。ここで追加料金(50コルナ)を払えば、カメラの持ち込みも可能なのだけど、なんとなく手ぶらでウロウロしたい気分だったので、荷物は全てここに預けることにした。すると、クロークのオバサンは笑顔で「ジェクイ(ありがとう)」と言ってきた。やはり、写真撮影はして欲しくないのだろうか。

ともあれ、手ぶらで館内を歩くと、実に立派な造りになっていて、いたるところにチェコ史の偉人たちの銅像が立っている。特に、2階のヴァーツラフ広場に面した部屋は、偉人たちの銅像だけで埋め尽くされていた。ここから眺めたヴァーツラフ広場の全景は実に見事で、カメラを預けてきたことが悔やまれる。俺は、加賀谷に銅像の人々の説明をしながら、この国の歴史に思いを馳せた。

銅像の多くが、芸術家や学者である。特に目立つところにあるのは、日本人の俺でも知っているヤン・フス、ヤン・コメンツキー、トマーシュ・マサリク、べドジフ・スメタナ、アントン・ドヴォルザーク、カレル・チャペック、ボジェナ・ニェムツオヴァー。もちろん、知らない人の銅像もたくさんあったけど、さすがに文化大国だけに、文化人を大切にするお国柄が良く出ている。

銅像に見飽きたので、展示に向かった。2階は、地質学と人類学の展示だ。隕石や宝石などの豊かな展示に感心し、続いて原始人の頭蓋骨や太古の丸木舟の展示を堪能した。続いて3階に行くと、ここは進化や動物学のコーナーだった。恐竜の骨は少なかったけど、無数の動物の剥製や鯨の全身骨格標本などを大いに楽しんだ。特に、寄生虫のホルマリン漬けは珍しいと感じた。ちょっと気持ち悪かったけどな。

昨日の歴史博物館に比べると、さすがにお客さんが多かった。外国人観光客も少なからずいたようだが、彼らは何が目当てなのだろうか。人のことは言えないのだけど。

2階の最奥の大広間は入室できなかった。またもや、クラシックのコンサート会場になっているのだ。この街は、どんな場所でもコンサートホールにしてしまう特徴があるようだ。なにしろ市街全体で、一日あたり最低5箇所でクラシックをやっているもんなあ。クラシック愛好家にとっては、本当に素晴らしい街だと思う。

さて、だいたい展示を見終えたので、1階奥のカフェテリアを覗いてみる。そこでは、喫茶のみならず軽食も扱っているようだ。そこで、本日の昼飯はそこで摂ることにした。

カウンター横のガラスケースを覗くと、素晴らしいことに、チェコの家庭料理「お好み焼き」があるではないか。英語ではこれに相当する食事がないので「パンケーキ」などと訳されているが、これはれっきとした「お好み焼き」だ。小麦粉に野菜や芋を混ぜて、鉄板の上で焼き上げるのだから。俺と加賀谷は、「美味い、美味い」と言いながら、このチェコ名物に舌鼓を打った。ちょっと多目のサラダまでついて、なかなかリーズナブルな食事であった。

さて、腹もいっぱいになったので、次はヴァーツラフ広場に突入だ。クロークでカバンを受け取ると、陽光まぶしい戸外に出た。今回は、広場の西よりの道を、南から北へと歩く。

その途中で、3年前に地図帳を買った本屋さんを発見。ああ、懐かしい。少しも変っていない。俺は、地下1階の英語版コーナーで、2冊のペーパーバック(「チェコとバランス」という歴史書と小説「兵士シュベイクの冒険」)と、プラハの簡単な全図を買った。特に「兵士シュベイク」は日本で絶版なので、実に素敵な掘り出し物だったと思う。

また、小説コーナーに、ハヴェル大統領の作品集(この大統領は、もともと劇作家だった)のみならず、写真集まで置いてあるのに驚いた。いずれも、日本では入手できないはずである。ハヴェルファンの俺としては食指が動きまくったのだが、あんまりたくさん買っても消化不良になるだけなので、今回は見送ることにした。ちょっぴり残念だったなあ。

加賀谷は、外国語の本に血眼になる俺の様子に呆れていたようだが、文句も言わずに付き合ってくれた。ありがたいことだ。

こうして、3年前と同じ本屋で買い物をしてしまった。この本屋は、俺の財布を緩める不思議な魔力を持っているようだ。

すっかり重くなったカバンを抱えつつ、俺と加賀谷はヴァーツラフ広場を歩く。いやあ、沿道の幼い少女を眺めているだけで幸せを感じてしまうなあ。ずーっと、この広場をウロウロしていたいなあと言いながら、結局、次の進路をムハ美術館に向けてしまう。

ムハ美術館は、ヴァーツラフ広場の東側の道を一つ入ったところにある。

プラハ新市街の面白いところは、町並みが京都と同様に、碁盤目状に整備されている点である。つまり、いくつもの道路が、互いに直角に交わっているのである。このような都市構造は、一説によるとヨーロッパ最古のものであるらしい。この新市街を築いた14世紀のカレル1世は、もしかすると中国や日本から情報を得て、このような街づくりをしたのかもしれない。

プラハの街を散歩していて飽きないのは、場所によってまったく異なる顔を持っているからである。狭い道がグネグネと入り組む幻想的な旧市街、碁盤目状で機能的な新市街、川沿いに赤屋根が整然と並ぶ小地区、そして小高い丘に聳え立つプラハ城やヴィシェフラト。数キロ四方の狭い範囲の中で、これほど多彩な味わいを来訪者に与える街は、おそらくここ以外には無いだろう。おかしな言い方だが、プラハは、それ自体がディズニーランドを超える偉大なテーマパークなのだと思う。

さて、ヴァーツラフ広場を東に渡り、立派な建物の郵便局前を通って、広場の一つ東側を平行に走る道に入ると、ムハ美術館の看板がすぐに分かった。意外と小さい美術館だなあ、と思いつつ入り口を探していると、間違えて一つ隣のビルに入りそうになって、そこの守衛さんに注意されてしまった。あわてて引き返し、今度は入り口を探し当て、中に入った。この美術館は、普通の邸宅を改造して造ったものらしく、なかなかアットホームな雰囲気だった。

アルフォンス・ムハ(ミュシャ)は、20世紀初頭を彩るアールヌーボーの鬼才である。柔らかいタッチと清廉な色使いには、絵心が分からぬ俺でさえ惹かれまくりなのである。この美術館の中には、ムハの家族の写真や肖像をはじめ、デッサン画など、ファン垂涎の貴重な展示がいたるところになされていた。

お客さんは、中年のオバサンや若い姉ちゃんが多いのだが、意外と日本人らしいオバチャンも良く見かけた。わざわざここに見に来る、筋金入りのムハファンがいるのかも。

美術館の最奥の部屋には、ムハの一生をテーマにしたビデオの上映コーナーがあった。ちょうど始まるところだったので、我々は折りたたみ椅子に腰掛けてビデオに見入ったのであった。ただ、残念ながら解説がチェコ語だったので、細かいところは良く分からなかった。加賀谷は、そのせいか途中でウトウトしていたが、これはやむを得まい。彼は、おそらく今日になるまでムハに興味なかっただろうから。

ムハがナチスの尋問を受け、失意の病死を遂げたところでビデオは終わった。すると、係員のオバサンがやって来て、「次は英語版を上映しましょうか?」と我々に聞いてきた。「なんだよ、英語版があるなら先に言ってよ」と思ったが、同じものを2回見るのは時間の無駄なので、オバサンに断って美術館を出ることにした。

この美術館の出口には、ムハグッズの売店があった。展示会場よりこっちの方が混雑している理由は、ムハの絵のカレンダーとかビールジョッキとかお皿とかが、山ほど売ってあるからだろう。どういうわけか、今度は加賀谷が夢中になって土産物の物色を始めおった。彼は、今日一日でムハの大ファンになったらしい。ううむ、ムハ、恐るべし。結局、彼はカレンダーを買い、俺はマウスパッドとコースターを買った。この店のレジの姉ちゃん二人組が、なかなかいい感じだったので、忘れかけていた「現地妻量産計画」を発動しようと思ったのだが、残念ながらあまりにも店が混んでいたので、話しかけるどころではなかった。どうも、「現地妻計画」は運に見放されているようだなあ。

チェコ人の姉ちゃんは、ハンガリー人に比べると都会的で計算高そうに見える。多分、実際にそうなのだろうな。基本的にはロシア人に良く似た顔立ちなのだが、ロシア人に比べると小柄で可愛らしいタイプの人が多い。また、食生活の違いによるのか、ハンガリー人に比べて、中年になってもデブになる人が少ない。チェコは、男も女も上品に年をとっている人が多いのだ。ハンガリー人は、フォアグラばかり食っていないで、少しはチェコ人を見習って食生活を改善した方が良いと思うぞ。

などと詰まらないことを考えながら、旧市街方面に北上した。次の目標は、お土産品漁りである。とりあえず、旧市街東端のコトヴァ・デパートに行ってみることにした。ナ・プシーコピエ通りを東北に歩き、火薬塔の前を経て市民会館を通りかかると、そこでもコンサートのチケットを売っていた。ううう、食指が動くぞ。市民会館のスメタナホールは、ムハの絵画で周囲を彩られた実に綺麗なコンサート会場なのだ。

すると、人の良さそうな青年が英語で話しかけてきた。「今日、8時からここでヴィヴァルディの四季だよ。クラシックは嫌いですか?」。俺はたまらず、「クラシックもヴィヴァルディも好きだよ」と答えてしまった。すると青年は、「ヴィヴァルディだけじゃなくて、バッハやヘンデルやモーツアルトもやるんですよ。しかも、僕の持っているチケットは大安売りの500コルナ!さあ、お買い得ですよ」と来た。ああ、行きたいよー。でも、旧市街広場に設営されたコンサートも気になる。あれも確か、今夜8時から開演だったぞ。それで、しばらく様子を見てからまた来ることにした。青年は、「僕はオレーグです。僕の名を言えば安くなりますから」と言ってチラシに名前を書いて俺に渡してくれた。なかなか凄まじい商魂だわい。

無茶苦茶に後ろ髪を引かれつつ、コトヴァ・デパートに到着。ここは、観光地の土産物屋に比べて値段が安いに違いないと思ったので物色に来たのだ。それは確かにそうだったけど、なんか品揃えが悪い。アンジェルのスーパーマーケットの方が遥かにマシだった。そこで、とっととデパートを出て、再び旧市街広場に進路を取った。

その途中で、何件かの宝石店とクリスタル屋に寄った。実は、日本で待つ彼女にガーネットかクリスタルの土産を買ってやりたかったのだ。店を物色しながらいろいろと考えたのだが、やはりここはクリスタルの置物を買ってあげるのが良いと判断し、2件目のクリスタル屋で白鳥の置物を2つ買った。一つは、弟夫婦の分である。

加賀谷も、俺と同じ店で、家族のためにグラスセットを買った。それにしても、素晴らしい装飾がなされた立派なボヘミアングラスが、6個入りで1,000コルナ(4千円)とは安い。加賀谷は最初、1個4千円だと思って1個分を買ったつもりだったのだが、大きなケースに6個も入ってきたので仰天していた。

日本なら、これより質が低いやつが1個1万円でもおかしくない。そんなのを「金持ちの証拠」と勘違いして、好んで買う馬鹿が多いせいだろうな。

さて、昨日から今日にかけて、旧市街広場ばかり来ているが、ここはプラハの中心なのだから無理はない。ここで野外コンサートの時間を確認したところ、やはり夜8時開演だった。ということは、悪いが、オレーグくんには泣いてもらうしかないようだ。

ふと自分たちの姿を見ると、俺も加賀谷も、土産物や本を買いすぎて重量オーバーだった。特に加賀谷は、壊れ物の大きなケースを抱えている状態だ。そこで、いったんホテルに戻って荷物を置くことにした。

旧市街を南下して、テスコ前から9番トラムに乗って帰った。今回は、気分でアンジェルを行き過ぎて次の駅まで乗った。こうすると、ホテルまでは坂道を下る形になるから楽だと思ったのだが、かえって距離が増えてたいへんになった。ともあれ、ホテルの部屋に入って、ベッドの上に仰向けになってしばらく休み、時計を見ると5時半だった。今日のこれからの予定は、腹ごしらえしてから旧市街広場のコンサートに行くだけだ。

今夜は、加賀谷に本格的なチェコ料理を食べさせてやりたいと思ってガイドブックをめくった。やはり、プーシキン・ドルーナか、マリア・テレジアが良いだろう。

我々は、再び9番トラムでテスコ横に出た。そこからまっすぐ北上すればプーシキン・ドルーナに出られるはずだが、なぜか見当たらなかった。そこで諦めて、ナ・プシーコピエ通りまで戻り、懐かしいマリア・テレジアに入った。いやあ、少しも変わっていない。相変わらず、綺麗な絵画に囲まれた落ち着ける空間である。確か、3年前はアヒル料理を食べたんだっけ。

ウエイターは大柄なオッサンだったが、なぜか日本語が話せる人だった。カレル大学で語学研修でも受けたのだろうか?日本語が出来るということは、当然、他の言葉も出来るはずだから、かなりの高給取りかもしれない。

俺は加賀谷に、いわゆるヴェプショー・クネドロ、ゼーロ(豚の燻製にクネドリーキとキャベツの酢漬けをつけたもの)を食べさせてあげたかったのだが、なぜか豚肉が品切れで、鴨ならオーケーだという。そこで、鴨とクネドリーキとキャベツの酢漬けをメインに頼むことにした。あと、ポテトスープとビールも忘れてはならぬ。いやあ、ビールとスープは無茶苦茶に美味い。でも、肝心のメインは、少々期待はずれだった。というのは、味付けが甘すぎるのである。もうちょっと、しょっぱめ(キャベツの場合は酸っぱめ)でも良かった。そういう意味では、3年前よりも味が落ちたのかな?

チェコ料理は、味付けのコンビネーションに妙味がある。メインの肉料理とキャベツの酢漬けにクネドリーキ(チェコオリジナルの小麦粉のダンプリング)が、口の中で溶け合う様がたまらないのだが、今回はちょっと期待はずれだった。それでも、食後にコーヒーを頼んでチップもつけてやったのだが、料金は一人1,600円くらいで、意外と高くついた。

全体的に、チェコの物価は3年前よりも上昇している。まあ、経済がうまく行っている国は、インフレになるのが当然なのだから、これは仕方ない。

さて、時計を見ると、もう7時半だ。そろそろコンサート会場に向かうとしよう。

酔い覚ましに夜風に当たりながら、ブラブラと旧市街広場に入ると、ここは美しくライトアップされたコンサート会場とその周囲に集う人々で賑わっていた。会場の鉄柵内の簡易椅子の列は、着飾った来賓たちでいっぱいだった。

舞台横の大きなスクリーンには、チェコの洪水の様子がスメタナの『わが祖国』や映画『スペースヴァンパイア』(笑)のテーマに乗って大写しになっている。これは、やはり洪水関係のチャリティコンサートなのだ。

俺は、彼らのために寄付をしたい心境になったので、寄付金の受付場所を探したのだが、それらしきものは存在しなかった。思ったとおり、部外者でも無料で聴けちゃうコンサートなのだ。ううむ、大らかというのか大雑把というのか。

その間、加賀谷はまたもや「水飲みたい病」にかかって、広場脇の売店で水を買っていた。その後、我々は鉄柵外の後ろ側の石畳に、大勢の野次馬的聴衆とともに腰を落ち着けることにした。

やがて時間になると、舞台の上に女優らしい人が立って挨拶を始めた。言葉は全てチェコ語だったのだが、なぜか大意は理解できた。これこそ、俺の才能と言うべきだろうか?どうやら、鉄柵の中の着飾った人々は、チェコに寄付してくれた世界各国の企業の要人たちであるらしい。このコンサートは、彼らにお礼をするために開催されたのだ。それにしても、寄付のお礼を、広場の真ん中にてクラシック音楽でするというセンスは、いかにもチェコ的で面白いと感じた。

女優の退場とともに指揮者(ああ、名前を忘れた)が舞台に昇り、栄えあるプラハ交響楽団の演奏が始まった。屋外なので音響効果は悪いが、それでも弦楽器の音色の美しさは良く分かった。チェコの交響楽団は、客観的に見て世界最高峰の技量を誇る。日本で彼らの演奏を聴こうと思ったら、1万円程度の出費は覚悟しなければならないだろう。そんな彼らの演奏を無料で聴くのには、なんとなく罪悪感を覚えたので、帰国したら「日本チェコ協会」を通じて必ず寄付をしようと心に決める。

演目は、スメタナ、ドヴォルザーク、ヤナーチェク、マルチヌー、スークといったチェコの作曲家が中心だったようだが、あいにく、知らない曲ばかりだった。そんなことで、チェコファンと言えるのだろうかと唇を噛む。また、フランス人作曲家ビゼーの「カルメン」や「アルルの女」から何曲も演奏していたのは、最大の寄付者である(らしい)フランスのエピアングループに捧げるつもりだろう。なお、日本企業で寄付者となったのは、NISSAN一社だけだったようだ(寄付者の名前は、全て、鉄柵周囲に貼られた垂れ幕に書いてあった)。これは、フランス人のゴーン氏が会長だからかもしれない。それ以外の日本企業は、どうしたのだろうか?まあ、チェコに寄付するくらいなら、ドイツに寄付したほうが得だと思ったのだろうな。あるいは、不景気が深刻すぎて、寄付をする余裕がないのかもしれない。チェコのような国にいると、我が国の不景気が洒落になっていないことが痛切に分かるのだ。

周囲に目を移すと、ライトアップされたティーン教会がオーケストラの背後に屹立し、この上なく美しい。ここは、誇張抜きに世界一豪華なコンサート会場かもしれない。また、会場の左横に立ち、あたかも会場を覗き込むようなヤン・フス像の周囲には、チェコの若者たちが鈴なりに座って演奏に聴き入っていた。いつもは厳めしく中空を睨むフス師は、会場のライトの照り返しを受けて明るく輝き、彼が愛して止まなかったチェコの若者たちに囲まれて、満面の笑みを浮かべているように見えた。

 

 concert

約1時間半の演奏だったが、実に面白かった。我々は、心地よい興奮を胸に川岸に出て、川沿いに国民劇場前まで歩いた。川越しに見えるプラハ城は、ライトアップされて黄金色に見事に輝く。また、川面に目をやると、無数の白い水鳥たちが大きな木柵の上に群がってガーガーと鳴きながら休んでいるのが印象的だった。

我々は、国民劇場前から9番トラムに乗ってアンジェルまで帰り、いつものスーパーマーケットでジュースを買ってからホテルに帰った。

俺は、ベッドの上に横になりながら、明日の予定を決めようとガイドを開いた。明日は、国鉄に乗って地方都市に行く予定だったのだが、その場所はまだ決定されていなかった。本当は、カルロビ・バリとかマリアンスケー・ラーズニェーなどの温泉地が良かったのだが、プラハから片道で最低3時間もかかる。やはり、片道1時間程度が良いと考えつつガイドを調べると、候補は3つ見つかった。すなわち、プルゼニュ、クトナー・ホラ、ターボルである。いずれも、拙著『ボヘミア物語』に関係が深い街だから、歴史の取材には持って来いなのだ。

ただ、ターボルは3年前に訪れているから、今さらという気もある。この地で、3年前に訪れることが出来なかった「フス派運動博物館」に行ってみたかったけど、そのためだけに貴重な日程を消費するのはどうだろうか。

次に、日本で買ってきたトーマスクックの時刻表を開いた。すると、クトナー・ホラ行きの電車が、最も至便な時間帯にプラハを発つことが分かった。念のために加賀谷に確認を取ると、彼は隣のベッドでウトウトしながら、「ああ」とか「うう」とか言うだけだ。それなら、クトナー・ホラに決まりだ(いい加減だなあ)。

その後は、交互に風呂を使って、またもや泥のように爆睡した。