歴史ぱびりよん

歴史ぱびりよん > 世界旅行記 > 第2次チェコ旅行記 > 9月5日木曜日 プルゼニュ遠征

9月5日木曜日 プルゼニュ遠征

今日も、目覚まし時計を使うまでもなく、二人同時に6時30分に目が覚めた。俺と加賀谷は、体内時計が完全に同じなのかもしれない。もしかして、理想の夫婦になれたりして。きゃー、恥ずかしい!

アホウなことを言っている場合ではない。電車に乗り遅れるのは嫌なので、7時ちょうどにレストランに行き、15分で美味い飯をかっ込んで、ロビーで1万円を両替してから出陣と相成った。

いつものアンジェルから、9番トラムに乗っていく。テスコ前を過ぎてヴァーツラフ広場を横切ってから主要駅前の公園に到着した。時計を見ると7時35分。おお、完璧に計算どおりだ。我ながら、大したものだわい。

しかし、主要駅の構内に入って、発着案内盤を見上げてから仰天した。トーマスクックに明記してあった7:52発ブルノ行き電車の表示がないのだ。これでは、クトナー・ホラに行けないじゃないか。トーマスクックに裏切られたのは、去年に続いて2度目である。あるいは、洪水の影響だろうか?

どういうわけか分からないが、ここは次善の策しかない。8:00発プルゼニュ行きの電車があるので、目的地をこちらに変更することにした。加賀谷は、何だか分からないまま黙ってうなずいた。

少し、時間に余裕が出来たので、しばらく駅構内を散歩する。ここは、大勢の人々が行きかう実に華やいだ場所だ。加賀谷は、ボックス型の証明写真自動撮影機を見て、「チェコには、こんなものまであるんだ!」と驚いていたが、チェコは既に日本並みの国だということが、まだ分からないのだろうか?

そんな彼は、サッカーマニアなので、コンビニの雑誌コーナーでサッカー誌を見つけて立ち読みを始めた。チェコは、サッカーやアイスホッケーが盛んな国だから、彼の目を惹く記事があったのだろう。もっとも、文字は全てチェコ語だから、写真を見るしかないだろうけど。結局、俺と加賀谷は、それぞれアイスティーと水を買ってこの店を後にした。

この国で買い物をしていつも思うのだが、店員さんが実に愛想が良い。店員さんに限らず、博物館の係員やレストランの従業員もそうだ。目が合えば必ず挨拶されるから、チェコ語の予備知識を持ち合わせていなかった加賀谷も、挨拶の言葉を全て覚えてしまうほどだった。サービスの水準も、例えば隣国のオーストリアやハンガリーよりも遥かに上だ。本当にこの国は、13年前まで社会主義(サービスという概念がない)をしていたのだろうか?何にせよ、好きな国の成長ぶりを間近に見るのは、とても嬉しいことだ。

時間が迫ったので、切符売り場に向かう。「プルゼニュまで2枚」と窓口に言うと、受付の姉ちゃんはチェコ語で何か聞いてきた。意味が分からず当惑していると、彼女はボディランゲージを使って、水平にした手のひらを前後に動かして見せた。どうやら、「往復か片道か」を聞いていたようだ。それで、こちらも手のひらを行き来させて「往復」であることを伝えた。3年前は、窓口でそんなことを聞かれなかったから、ここ最近になって「往復割引制度」が出来たのだろう。加賀谷が持ってきた『地球の歩き方』に記されているプルゼニュまでの旅費を見るに、どうやら片道ずつ買う場合の2/3程度の料金になったようだ。これは、ラッキーである。日本のJRも、この仕組みを見習ってもらいたい。

主要駅は、全てのプラットホームが一本の廊下で連絡されている構造なので、とても分かりやすい。廊下から階段を昇ってホームに立つと、ほどなく列車が滑り込んできた。しかし、残念なことに、2日前に目撃した2階建ての新型車両ではなかった。3年前にも利用した、古びたやつだった。「うわー、残念だー」と二人で言い合いながら、二等席のコンパートメントに腰を据え、のんびりと車窓に見入った。この列車は、あまり混んでいなかったせいか、目的地まで二人で一室を独占状態だった。

陽気な女性車掌の検札を受け、その後、なぜか二人組の男性係員からパスポートチェックを受けた。この路線は、ドイツに繋がっているからだろう。あるいはテロを警戒しているのかもしれない。この貧相な二人組が、テロリストに見えるはずはないと思うが。

プラハからプルゼニュまでは、約110キロ1時間半の旅である。主要駅を滑り出た列車は、団地群の間をすり抜けて、鉄道橋でヴルタヴァ川を西に渡った。この鉄道橋は、2日前に我々が歩いて渡ったあの場所である。あのとき、この橋を行き来する列車は、全て新型車両だったんだけどなあ。なんか、騙された気分だ。

俺は、テレビ番組『世界の車窓から』のファンなので、ヨーロッパに来るとどうしても鉄道を使った旅がしたくなるのだ。まあ、これがイタリアなどの出鱈目な国なら躊躇するところだが、ドイツ文化圏や東欧は、電車が時間通りに走るので安心なのである。

プラハを離れると、周囲はたちまち田園や濃い森といった風景になる。加賀谷も、「うらやましいなあ」と嘆息した。やがて列車は、小さな川沿いを進んだのだが、この川は茶色い急流で濁り、その沿岸の家屋や牧場は激しく破壊され無人となっていた。洪水の爪あとは、やはりかなり深刻である。完全に復旧されるまで、相当な歳月が必要となるだろう。

チェコの車窓風景は、起伏が激しいから面白い。オーストリアやハンガリーは、麦畑やヒマワリ畑が単調に続くだけだが、チェコ(特にボヘミア地方)は森や丘陵が多い土地柄なので、景色を見ていて飽きることがないのだ。こういう景色が、チェコ人のユニークな民族性を形成する上で大きな影響を与えているのかもしれない。

 

SYASOU

豊かな自然に見とれているうちに、プルゼニュ駅に到着した。時刻は9時半だから、観光の時間はたっぷりある。しかし、車窓をポツポツと打ち始めていた雨は、いつしか本降りに変わっていた。ううむ、幸先悪し。

駅に降り立った俺は、急に尿意を催して便所を探す。しかし傘を持って来なかった加賀谷は、そんな俺を無視し、駅構内の売店で物色を始めた。やがて、かなり立派な折り畳み傘を100コルナ(400円)でゲットして上機嫌だった。小便が漏れそうな俺は、そんな友人を引っ張るようにして便所を探し、ようやく駅の2階で目的を達成することが出来た(有料)。

人心地がついたので、市街に向かうことにする。この駅は、イスタンブールのソフィア大聖堂のような形をしたユニークな駅舎に覆われている。駅前広場でしばしそれに見とれてから、鉄道の高架線をくぐって市街へと繰り出した。ここはボヘミア地方最大の工業都市だけに、自動車は多いし、いかにも都会といった雰囲気で、あまり観光資源を期待できそうに無い。雨は激しく降りつけ空気は肌寒いので、一歩踏み出すたびに士気が鈍る。

そこで、周囲に日本人がいないことを確かめてから、二人で仲間内の隠語を叫んで戦意高揚を図った。プルゼニュの雨空に、「くっせえーんだよー」「じゃきがきじゃきがきー」など、ほとんど日本人ですら理解できぬ怪しげな言霊が響くのであった。

この変態コンビ兼人類の恥コンビが、雨の中、傘を差して歩くことしばし、右手前方に、チェコ最大の尖塔を誇る聖バルトロミュー教会が見えてきた。そこで、自動車道を右折して旧市街に向かう。

プルゼニュは、チェコ国内で第6位(ボヘミア地方では、プラハに次ぐ第2位)の大都市である。しかし、主な観光資源は、細長い緑地によって卵形に囲まれた500メートル四方の「旧市街」に集中している。この緑地は、昔の城壁を取りこぼして作ったものだ。つまり、中世の昔なら、この街は小さな旧市街だけで成り立っていたわけだ。それを言えば、ウイーンやショプロンも同じだ。歴史書などで「大都市」と書かれている場所って、自分の足で歩いてみると、意外と小さかったことが良く分かる。だから、個人旅行は楽しいのだ。

その旧市街の中心に、長方形の大きな共和国広場があり、そのさらに中心に建っているのが、聖バルトロミュー教会だ。プラハの教会と違って、黒々として厳しい姿は、なかなか興味深い。中に入ろうかと思ったが、教会の前で何かイベントの準備をしていて、広場の端で大規模な土木工事をしていて落ち着かない雰囲気だったので止めることにした。

 

bartrmy-

この大きな広場の一部は、テントを張った野外ビアホールになっており、テントや幟には、名物ピルスナー・ウルケルの文字が至る所で自己主張していた。テントの中を覗いてみると、観光客だろうか。朝っぱらから酔っ払いのオジサンたちが、ジョッキを片手に上機嫌にやっている。

言い忘れたが、プルゼニュはビール愛好家の「聖地」なのだ。12世紀からビールの醸造をしているこの街では、近郊のジャテツ名産の良質ホップの助けを借りて、「世界一美味いビール」を作ることで有名だ。いわゆるラガービールは、この街で生まれたのである。

日本の大手ビールメーカーは、この地に競って人材を派遣し、本場の味を盗ませようと何度も試みたのだが、成功しなかったのだとか。

また、ドイツ人のビールマニアは、この街の名を聞くと露骨に顔をしかめるらしい。ドイツっぽは、自分たちが、チェコ人に勝てないと思いたくないのだろう。でも、事実はこの街が世界一なのだから仕方ない。素直に負けを認めるべきであろう。

そういうわけなので、この街に来てビールを飲まないというのは、海に来て泳がないのと同じくらいのアホウである。しかし、雨はますます強くなるし、気温もどんどん低くなり、どうもビールを飲む気にならない。相棒が、あまり酒を嗜まないというのも、士気を鈍らせる原因であった。そこで、市内観光を最優先することにした。

プルゼニュ旧市街は、プラハ新市街と同様、碁盤目状の互いに直角に交わる街路に覆われている。まあ、プラハ新市街に比べると規模は遥かに小さいのだけれど。我々は、その街路を歩きながら、大シナゴーグやティル劇場、市庁舎などの建築名所を見て回った。

雨はますます激しくなり、気温もますます寒くなる。俺は、「また洪水が来るかもよ。そうなったら空港が閉鎖されて、当分、日本には帰れないかもな。俺は自由業だからなんとかなるけど、サラリーマンの君はクビだな!」などと言って友人を虐めるのであった。

なんだかんだ旧市街を一周してから時計を見ると、午前10時半。ビールを一杯引っ掛けてから、もうこの街を去ろうかと思った。ここは、第二次大戦で激しい爆撃を受けた後で建て直した街だからか、あまり「美味しい雰囲気」(俺は「地霊」と呼んでいる)を感じないのだ。旧市街に並ぶ店舗も、いかにも俗っぽい感じで、これじゃあ、東京やウイーンと同じ、「ただの街」だ。今すぐにここを発てば、プラハ経由でクトナー・ホラに行けるはずだから、その方が良い。

そう思って加賀谷に相談しようかと思っていると、我々の眼前に「ビール醸造博物館」が現れた。博物館と言っても、小さな普通の家みたいだ。昔のモルトハウスを改造したここは、この街のビール醸造の歴史を展示する博物館であるらしい。何となく惹かれるものを感じたので、我々は雨宿りを兼ねてここに入ってみることにした。

 

BEERMUZEUM

博物館にしては、妙にアットホームな雰囲気だ。受付に行くと、ジイサンが一人、丸テーブルでくつろいで新聞を読んでいる。その隣のチケット売り場には若い娘さんが座り、英語で丁寧に応対してくれた。おお、なかなか俺好みの可愛いタイプだぞ!

彼女が「日本人ですか?」と聞くので、そうだと答えると、日本語の解説書を手渡してくれた。これは、各部屋の展示内容ごとに、ちゃんと章立てされた解説書だった。それにしても、各国語の解説書を準備しているとは感心だ。まあ、それだけ世界各国から来訪者があるということだろう。地味な博物館だけに、ちょっと意外な気もするが。

俺と加賀谷は、それぞれ解説書を見ながら順路に沿って展示を回った。ただ、日本語の解説書は、良く見ると、ところどころ英語に置き換えられていた。おそらく、誤訳が見つかったか、解説に修正が入ったけど日本語訳が間に合わなかった、という事情によるものだろう。まあ、英語なら別に問題ない。

最初の部屋は、「ビールの黎明」の展示だ。いわゆる世界四大河文明の概要から始まり、エジプトやメソポタミアで発掘されたビールグラスや醸造道具が展示されていた。

その隣の大きな部屋には、19世紀半ばのチェコの一般的なビアホールの様子が、何体もの蝋人形を用いて再現されている。これは面白い。

狭い階段を上り下りしながら展示場を進んでいくと、そこには、この街で実際に使用されていた醸造道具の展示があった。ちゃんと製造工程順に並んでいて、樽の製作や商標登録や各種のビールジョッキ、さらには居酒屋の看板に関する展示まであって実に興味深かった。

それよりも、この博物館自体が楽しい。どうやら、いくつもの家屋を買い足して繋ぎ合わせてビール工場にしたものらしく、狭い階段を登ったり降りたり隣の棟に入ったり、まるで迷路の中を探検しているかのようだった。外見からは想像もできないほどに展示が多いのは、そのためなのだ。落ち着いた雰囲気の中庭もあり、「こんな家に住んでみたいなあ」と二人で言い合った。

最上階で、かつてこの家を使って操業していた人々の肖像画や写真を見終えると、最後の展示は、階段をずっと下って、この家の地下室にあった。ここは、中世の昔から、氷塊を搬入して温度を下げ、ビールを貯蔵した場所らしい。あちこちにビール樽が転がるここは、ひんやりとして雰囲気のある地下室だった。最奥まで進むと、鉄の格子の向こう側に、どこが果てとも知れぬ長大な地下道が延々と伸びていた。

ターボルもそうだが、チェコの地方都市は、中世のころ、食料貯蔵庫やいざというときの避難所にするために、街の地下に縦横無尽に地下道を張り巡らせたのである。プルゼニュにも、ガイド付きで地下道を探検するツアーがあるらしいから、これがその地下道の一端なのであろう。どうしてガイド付きなのかといえば、この地下道はあまりにも入り組んでいるために、迷子になって出られなくなってしまう可能性が大きいからだとか。恐ろしい話だなあ。

ともあれ、すっかり堪能したので、受付で姉ちゃんにガイドを返した。

来たときに受付で新聞を読んでいたジイサンは、我々が展示を見ているときに、近くをウロウロしていたのだが、受付に戻ってみるとやっぱりそこの丸テーブルにいた。どうやら、この博物館の係員だったらしい。そのそばには、同年輩のバアサンもいた。ほのかに漂うアットホームな雰囲気から想像するに、受付の姉ちゃんとこのジジババは血縁関係にあるのではなかろうか?

ジイサンに、「あなたの娘(孫娘?)を私の現地妻にください!」と言おうと思ったが、現地妻という英単語が分からなかったので断念した。ううむ、どうも詰めが甘いなあ。言葉さえ通じれば、ジイサンに「あなたのような超絶的美青年なら、喜んで!」と答えてもらえたことは必定なのだが。ということを加賀谷に言おうと思ったけど、鼻で笑われるのがオチだから止めにした。

自分で言うのも難だが、俺も、日本に彼女がいるくせに、ロリコンになったり現地妻がどうとか言ったり、加賀谷のおケツがどうたら言ったり、実に節操のないことだわい。

さて、外に出ると、素晴らしいことに雨は小降りになり、空のところどころに晴れ間が見えるではないか!それに伴って気温も上昇中だから、すっかり俺の機嫌も直ってしまった。やはり、しばらくこの街で遊ぶことにしよう。

時計を見ると11時半だ。昼飯には少し早いので、駅から旧市街に入る途中に見かけた「西ボヘミア博物館」に入ることにした。旧市街の東側に出て、昔の城壁沿いに南下すると、沿道は緑豊かな公園とベンチが並び、すごく良い雰囲気だ。

すると、ある邸宅(ホテル?)の白壁一面に、何十人もの人物が描かれた綺麗な壁画があるのに気づいた。目を落とすと、その邸宅の隣の空き地に説明版があり、描かれた人物の名前が克明に記されてある。どうやら、この街に関係した歴史上のチェコの偉人の肖像画らしい。ちゃんと、ヤン・ジシュカやワレンシュタイン(ヴァルドシュテイン)もいるので思わず笑ってしまった。さすがにチェコは、歴史を大切にするお国柄だわい。

 

IZINN

さて、緑地沿いに立つ見事なロココ様式の西ボヘミア博物館に到着。どうも、これは貴族の屋敷を改造したものらしい。だけど、「ビール醸造博物館」よりマイナーらしく、『地球の歩き方』にはまったく案内がない。案の定、受付のバアサンも展示場の係員も、まったく英語が出来ない人たちだったので、必殺のボディランゲージを全開して用を足した。

入場料はずいぶん安く、一人10コルナだった。「なんでこんなに安いんだろう?」と二人で言いながら、クロークルームにカバンとカメラを預け、手ぶらで展示場に向かった。

最初の展示場は、地階の軍事資料館だ。これが、思わぬ掘り出し物で、今回の旅行最大の成果を得られたのだ!

我々以外には誰もいない中を歩くと、広大な展示場には、武具甲冑、鉄砲や大砲が、所狭しと展示されており、その規模は昨年訪れたウイーン軍事博物館を遥かに凌駕していた。

俺が思わず歓声をあげたのは、「フス派戦争」の展示である。フス派軍が使った鉄砲ピーシャラチが、これでもかとばかりに飾ってあるのだ。

周囲に係員がいないのを確かめると、この原初的な鉄砲を手にとって眺め回した。意外と大きいが、思ったよりも軽い。何しろ15世紀初頭の兵器だけに、日本の火縄銃(種子島)よりも原始的な形態を持っている。構造的には火縄銃と同じで、銃口から弾を込め、火縄を用いて点火する仕組みになっているが、銃眼はないし、木製の握り部分が銃口の直線上にあるのだ。つまり、黒光りしたまっすぐの「鉄の棒」なのである。これでは、命中精度はかなり低かったに違いない。でも、長くてまっすぐな棒なのだから、弾が切れたらそのまま棍棒として使えたのかも分からないなあ。この命中精度の低さを補うために、ヤン・ジシュカ将軍は「車砦戦法」を編み出したのだろう。・・・おお、こっちの壁には、フス派農民兵の主力兵器、クロパーチ(鎖鎌の一種)まで飾ってある!おおお、た、たまらーん。

・・・何を言っているのか分からない人は、早く「概説チェコ史」か『ボヘミア物語』を読みなさい。

マニア道全開の発狂状態で夢中になっている俺を尻目に、加賀谷はいかにも退屈そうだった。彼はノーマルだからなあ。

一通りの展示を見終えてから周囲を観察すると、床の一角に地下に降りる階段があるのに気づいた。そこで好奇心にかられて降りてみたところ、そこには発掘中と思われる古びた城壁跡があった。おそらく、10世紀くらいの古い城壁の遺構がこの博物館の真下にあって、それを掘り返している途中ということなのだろう。

さて、軍事部門の展示にも飽きたので、別のコーナーに行こうと思い、正面入口に回ってから2階への立派な階段を登った。ここは、案内板があまり整備されていない博物館だったので、どこに何があるのか分からない。とりあえず、2階の左翼の棟に足を向けたところ、廊下で、上品な老婦人と楽器を抱えた高校生くらいの少女たちに出くわした。老婦人は、「アンティークの展示場は、ここじゃないわよ。上の階だわよ」とチェコ語で言って(ボディランゲージ交じりだから理解できた)、わざわざ我々を3階まで案内してくれた。どうやら、2階は博物館ではないようだ。青少年のための音楽教室でもやっていたのだろうか。

3階の一室が、博物館のアンティーク展示場になっていた。そこには上品な係員のオバサンがいて、分厚いペーパーバックを読みながら暇を持て余していた。彼女は、久しぶりの客の登場を喜んだのか、熱心にこの部屋の由来や展示物の概要について解説を始めた。ところが、この人の解説はチェコ語だったので、何を言っているのか理解できなかった。ただ、部屋の天井近くに飾られた肖像画のオジサンが、この屋敷のもともとの所有者で、ここにあるアンティークは、その人から寄贈されたものらしいことは推測できた。

オバサンにいちおうお礼を言ってから、勝手に見学を始めた。6列のガラス製の陳列ケースに並ぶアンティークは、陶磁器やガラスやアクセサリーが中心だったのだが、古くて貴重なものが多くてとても興味深かった。オバサンはといえば、一通りの解説を終えて満足したらしく、丸椅子に腰掛けてペーパーバックを読みふけっていた。チェコ人は、ヨーロッパの中でも「読書好き」で知られているが、なるほどと思う。

さて、次の展示はどこだろうか。屋敷内をウロウロすると、あちこちで、「こっちは駄目だよ」と注意をもらって困惑する。結論から言えば、この屋敷には地階の軍事部門と3階のアンティーク部門しか展示場が無いのであった。広壮な屋敷のほとんどの部屋は、市民のためのコミュニティルームとか、そんな用途に使われているのだ。だから、入場料が10コルナの安さだったのだな。

だったら、「西ボヘミア博物館」とか立派な看板を出すなよ。

クロークルームに荷物をもらいに行くと、その薄暗い部屋はアンティークの土産物屋も兼ねていることが分かった。部屋の隅に並ぶ陳列ケースには、アクセサリーやガラス製品、果ては琥珀や化石などもあった。値段は、なかなかリーズナブルだったが、別に欲しいものも無かったので、愛想のいいクロークルームのオバサンに別れを告げて戸外の人となったのである。

それにしても、「フス派戦争」の兵器の展示には感動した。また、次回作(短編小説)として構想中の「三十年戦争」関連の兵器も充実していて勉強になった。あれが見られて10コルナ(ぺトシーン丘の便所料と同じ!)なら安いものだわい。

さて、ガイドを調べると、この近くに別館の「民族博物館」というのがあるらしい。でも、ここと同じような代物だろうからパスしようと決めた。

とりあえず、もう12時半なので腹ごしらえをしよう。

旧市街の北側で、『地球の歩き方』に載っているウ・サルマズヌーというレストランを発見したので、そこに入った。いよいよ、本場のピルゼンビールを味わえる時が来たのだ。中世から営業しているこの店は、なかなか小奇麗で気持ちの良いレストランで、メニューも充実している。

我々は、念願の「ヴェプショー・クネドロ・ゼーロ(豚の燻製&クネドリーキとキャベツの酢漬け)」に加えて、グヤーシュ(ハンガリー起源のスープ)とビールを注文した。

ビールは、想像していたよりもドライで苦みばしっていた。チェコビールは、他の欧米製に比べてコクがあるのが特徴だが、ここのビールは特に強烈だった。さすがはビール愛好家の聖地だけのことはある。でも結構、腹にもたれるから、あんまり飲んでしまうとメインディッシュが美味しくなくなるかもしれないので、ここは1杯だけに留めた。

グヤーシュは、ハンガリーのものと違って辛口パプリカを使わず、クリームシチューみたいになっていたけど、これが無茶苦茶に美味かった。加賀谷も、「美味い、美味い」と連呼していた。チェコ人は、日本人と同様、外国文化を貪欲に吸収し、自分たち好みに改良する才能に優れているのだ。

いよいよ念願のメインだが、これがまた美味かった。キャベツの酢漬けも、ちょうど俺好みの酸っぱさで、加賀谷も「これが三浦くんの言っていた味かあ」と妙に感心していた。

満腹したので、コーヒーを注文してしばしくつろぎながら隣の白い壁を眺めると、そこには小さな額に入ったハヴェル大統領の写真が何枚も飾られていた。どうやら、この店で食事をしたときの写真らしく、その中の何枚かはサイン入りだった。俺はこの大統領の大ファンなので、何だかとても嬉しくなって、カメラとデジカメをカバンから取り出すと、周囲のお客がいなくなったときを見計らって撮影を開始した。

 

havel

でも、間違えてフラッシュを焚いてしまったので、ウエイターに見つかって怒られるなあ、と心配していると、案の定、ウエイターのオジサンが小走りにやって来た。でも、オジサンはにこにこと上機嫌で、「その写真の人は、私たちの大統領なんです。この店に来てくれたんですよ」と英語で言った。俺が照れながら、「知っていますよ。私は、この大統領が大好きで、心から尊敬しているんです」と答えたら、オジサンは「もちろん私だって!」と胸を張った。

加賀谷は日本語で、「喜んでもらって良かったじゃないか」と小さくつぶやいた。

ついでにお勘定をお願いしたら、料金は全部で400コルナだった。つまり、一人800円。うわー、安い。こんなに美味いビールや飯を食わせてもらって、こんなに安くて良いのだろうか?やはり、地方都市だと物価が安いのだなあ。

それにしても、こんな安食堂にサインまで置いていく大統領というのも凄い話だ。しかも、国民が悪びれずに「尊敬している」と言い切れる政治家なのだからなあ。日本の事情とは大違いで、なんだか羨ましい。

ヴァーツラフ・ハヴェル氏は、もともと世界的に有名な劇作家だった人だ。40年に及ぶ共産党の言論統制の中で、屈することなく「自由」を求めて戦い続け、過酷な強制収容所生活を耐え抜き、そして1989年に無血のビロード革命を成功させた立役者なのである。その後、国民の90%の支持を得て大統領になってからも、チェコの民主主義の発展のために目覚しい活躍を続け、「リベラルな文人大統領」として全世界から注目される存在である。チェコ国民が、この人を父親のように慕う気持ちは良く分かる。

尊敬するハヴェル大統領とレストランでニアミス(?)出来たので、俺はすっかり上機嫌なのだった。

でも、時刻表を見ると、プルゼニュ発のプラハ行き電車が2時4分にある。この街の見所は全て押さえたのだから、とっととプラハに帰るのが良かろう。そこで、往路を逆に辿って鉄道駅に向かうことにした。

途中で、スーパーマーケット・テスコを発見。この店は、プラハだけじゃなく、チェコ全土にわたって展開しているんだなあ。そこで、安い土産物でもないかと思って入ってみたところ、なかなか雰囲気の良い店だったが、市民向けの日用品ばかり売っていた。

こうして、我々は、何も買わずに駅に向かった。その途中の地下道には、不動産物件の案内が写真付きで貼られていたのだが、庭付き2階建て家屋が100万コルナ。つ、つまり400万円??わああー、いいなあ、いいなあ。チェコ人はいいなあ。こういうのを見てしまうと、日本で不動産を買うのがいかにアホウな行為なのか自明である。やはり、日本にいるうちは下宿住まいを通して、将来、こっちに移住するときに、こっちで家を買うのが賢いよな。でも、そのころには物価がうーんと上がっているかもね。

最も賢い方法は、早く小説家デビューを果たして、文筆一本で食えるようになることだ。そうなれば、こっちに家を買って移住し、仕事はインターネットで原稿を送れば済むわけだ。そして、現地妻を100人くらい作り、可愛いロリータたちには「おじチャン、大好きよ」とか言ってもらって。うひうひうひうひーって、誰か妄想を止めてくれー!

異常なことを考えているうちに、駅舎の前まで来た。ここを背景に記念撮影をしてから時計を見ると、1時45分。実にナイスタイミングだぜ。

しかし、往路に買った切符が気になる。試すがえす眺めても、「往復」の表示がどこにも無いのだ。もしかすると、これは往復切符ではないのかな?急に自信が無くなったので、加賀谷に切符売り場の列に並んでもらい、自分はインフォメーションセンターに走った。そこではさすがに英語が通じたので、その結果、どうやら大丈夫だということが判明。急いで加賀谷を呼びに戻り、こうして無駄な出費を回避することに成功したのであった。

その後、駅構内の自動販売機でジュースを買い(またもや水とアイスティーだ)、時間ちょうどにやって来た列車の二等席コンパートメントに乗り込んだ。しかし、今回も新型車両ではなかったのが残念である。しかも、混んでいたので、ラフな格好の青年とデブのオバサンと同室になってしまった。

隣のコンパートメントからは、酔っ払いの胴間声が聞こえてくる。賑やかに歌いまくって実に楽しそうだ。やはり、プルゼニュでビールを飲みまくったのだろうな。

考えてみれば、俺はプルゼニュで1杯しかビールを飲んでいない。これって、すごくもったいないような気がする。ただ、同行者が酒嫌いだから、彼を差し置いて飲みに行くわけにもいかなかったし、同行者がジュースや水を飲んでいるところでビールを飲んでも美味くないしで、まあ仕方ない。

その加賀谷は、席に着くと、こてっと眠ってしまった。彼は、酒を飲むとすぐに睡魔に襲われる人なのだ。どこでも眠れるとは、少しうらやましい。ただ、俺は眠るわけには行かなくなった。同室の青年とオバサンが悪人だったらたいへんだから、見張ってなければならない。ただ、青年は車窓に心を奪われているし、オバサンは携帯メールに夢中になっているから、別に危険は感じなかったけどな。

このデブで厚化粧のオバサンは、結局、プラハまでの1時間半、ほとんどメールを打ちっぱなしだった。愛人が何十人もいるのだろうか?それとも、一人で何件もの店舗を経営している人なのだろうか?

俺はコンパートメントで読書(日本から持ってきた小説)に勤しんでいたが、やがて退屈したので廊下に出て、車窓の風景に夢中になった。窓から顔を出していると、風がびゅーびゅー当たって気持ちが良い。起伏の激しい丘の隙間から、一瞬だけカレルシュタイン城が顔を出したのには驚いた。あわててデジカメを取り出したが、すでに時は遅し。やっぱり、この国の車窓は最高だなあ。

こうして、3時半にプラハ主要駅に着いた。駅舎で小水を垂らしてから(有料)、しばらく美しい3階のサロンを散歩し、その後、例によって例のごとく、ヴァーツラフ広場に遊びに行った。今回は、東側の沿道をブラブラする。

それにしても、街中に帰宅を急ぐ背広姿の人が多いのには驚いた。そういえば、平均的なチェコ人は、午後3時~4時くらいに帰宅すると、何かの本で読んだことがある。余裕があっていいよね。加賀谷もしきりに「うらやましい」を連呼していた。

チェコ人は、こんなにのんびりしているのに、日本より経済が好調なのは、いったいどういうわけだろう?というより、あくせく働く割には状況が良くならない我が国の方が異常なのかもしれない。我が国では、一部の特権階級が仕事もしないで高給をもらい、その皺寄せが庶民の双肩に被さっているのだ。これって、13年前までのチェコと同じじゃないのか?我が国は、ハヴェル大統領を招請して、ビロード革命のやり方を教えてもらった方が良いのかもね。いや、マジで。

そのような事を考えながら歩く途中で、ヴァーツラフ広場の東側に4階建ての大きな本屋を見つけて中に入った。いやあ、実に立派で綺麗な本屋だ。これなら、渋谷のブックファーストに負けてないぞ。もちろん、チェコ語の本しか無いのだが、俺くらいの読書好きになると、本に囲まれているだけで快感なのだ。

軍事コーナーには、意外なことに、太平洋戦争関係の書籍が山積みになっていた。チェコ人は、こういう本を読んでどのような感想を持つのだろうか?「一人でアメリカに立ち向かった勇敢な国」と思ってくれればいいのだが、合理的で冷静な彼らのことだから、「勝ち目のない無謀な戦争を挑むなんて、馬鹿じゃねえの?」と思う人の方が多いかも。

この国は、17世紀以降、一度も対外戦争をしていないから、かえって軍事や戦争に関する知的好奇心が高いのかも分からない。

本屋をウロウロしていて感じるのは、意外と日本関係の書籍が多いことである。SUSHIのレシピ本のみならず、ガーデニングコーナーにはBONSAI本が山積みだ。そういえば、街中でAIKIDO道場の宣伝ポスターを見かけた。この様子だと、日本人より日本文化に詳しいチェコ人が実在するかもね。

俺は結局、2階でムハのカレンダーと絵葉書を買った。このカレンダーは、昨日、加賀谷が美術館で買ったのと同じものである。ずーっと、うらやましく思っていたのだった。

本屋を出てから、次の予定を考える。ここから、もう一度、旧市街庁舎の様子を見に行こうとも思った。もしかすると、復旧が終わって入場できるかもしれないし。

でも、それは甘い期待だった。旧市街庁舎は相変わらずだった。それで、カフカの家に行ってみると、そっちは開いていた。でも、なんか狭そうなので、加賀谷は遠慮気味だ。俺も、3年前に訪れているから興味はないので、足早にここを離れた。

「そうだ、夕方から人形劇でも見よう!」と思い立ち、ユダヤ人街の劇場に行ったら、やっぱり、洪水のために閉鎖になっている。「ううむ、残念だ」と言い合いながら、また旧市街広場に帰ってきた。

旧市街広場のコンサート機材は、すっかり片付けられていたので、フス像を背景にデジカメタイム突入。撮影が一段落したところで、「もう一度、カレル橋を渡ってみるか?」と友人に聞くと、彼は大いに乗り気であった。

そこで、「王の道」を伝って狭い道を歩くと、左手に見えるのはマリオネット博物館。どうやら、人形劇もここで公演しているみたいだ。「ラッキー」と言いながら時間表を見ると、次の上演は夜8時からだ。腕時計を見ると、現在時刻は夕方5時ちょっとすぎ。まあ、この街なら、時間を潰すのに困ることはないだろう。そこで、8時からのチケットを買った。

再び、カレル橋を西に渡った。橋の上は、パフォーマーや物売りが溢れ、観光客で鈴なりだった。露店に並ぶ、プラハ城を描いた水彩画などを眺めつつ、我々は小地区に着いた。ここの小地区の橋塔に登りたいと思ったが、どうやら閉鎖になっているらしいので諦めた。

二人組は、「どこかでお茶でもしようか」と言いつつ、結局、広大なヴァルドシュテイン宮殿を一周することに。この屋敷を17世紀に建てたヴァルドシュテイン(ワレンシュタイン)卿は、俺の次回作で主人公になるはずの人物である。それもあって、屋敷の中に入りたかったのだが、ここはどうも政府関係の来賓用施設として利用されているらしく、観光客は入館できなかった。仕方ないので、門扉の隙間から中庭の写真などを撮って、マラーストランスカ駅前の広場に出て来た。

「テスコで買い物でもするか」と、俺が行き当たりばったりの提案をすると、加賀谷は黙ってうなずいた。彼はどうも、疲労が蓄積されてきたらしく、表情に精彩がない。これなら、臓器密売業者に生きたまま売り飛ばすことも出来そうだぜ。旅費が足りなくなったらそうしよう、と物騒なことを心に誓いつつ(笑)、X-Aトラムに乗った。

軍団橋を渡る車窓から射撃島(復旧中の中州)への入り口を見ると、太いロープが渡してあった。なるほど、俺たちのような粗忽者が多いからだな。すると、小学生くらいの男の子二人組が、兵隊の隙をついてロープを潜る現場を目撃。やあい、チェコの兵隊は、ガキに舐められてやんの!まあ、どこの国にもイタズラ坊主はいるものだ。

そうこうするうちに、トラムはテスコに到着。いつも混んでいるこのスーパーは、なかなか品揃えが良かったので、俺と加賀谷は土産物選びに夢中になった。結局、俺はハーブの養命酒ベヘロフカ2本とチョコレートと絵葉書を、加賀谷はチョコレートを買った。

この店のレジは、どこでも長蛇の列だったのだが、レジ係の姉ちゃんは疲労を浮かべながらも、きちんと「こんにちは(ドブリーデン)」「ありがとう(ジェクイ)」「さようなら(ナスフレダノウ)」の3語を口にするから偉い。日本人は、少しは見習うべきではなかろうか?

しばらく文房具売り場を冷やかしてから、スーパー裏手の軽食スタンドに出た。二人とも、昼飯が重かったせいかあまり空腹でなかったので、この軽食を夕飯にすることにした。スタンドの上に書かれたメニューは、写真つきで分かりやすい。俺はカルパーサ、加賀谷はセルカを買った。

カルパーサは、発泡スチロールの皿の上に、マスタード付の大きなソーセージと黒パンを2枚乗せたものだ。これは、ヤン・シュバンクマイエル監督の短編映画「フード」に出てきたものなので、好奇心にかられたというわけ。加賀谷のセルカは、小さく切ったベーコンがたくさん入ったコッペパンだった。

加賀谷は、しきりに「美味い、美味い」を連呼していた。俺も、そっちにすれば良かったかなあ。カルパーサは、美味かったけど、想像通りの味だったし、ちょっと重かった。

腕時計を見ると、7時ちょっと前だ。人形劇が始まる8時まで、どこで時間を潰そうか。とりあえず、川べりでプラハ城を見ながらお茶でもしようと提案し、テスコを後にした。

国民劇場の前を通ると、大学生くらいの若い姉ちゃんたちが、いかにも幸せそうな顔で劇場に入っていく姿を目撃した。我々が滞在中の3日間の演目は、「フィガロの結婚」(モーツアルト)、「ルサルカ」(ドヴォルザーク)、そして「マクベス」(シェークスピア)だった。さすが、チェコの女子大生はインテリだぜ。俳優に抱かれたい一心で、歌舞伎座の前をうろつくアホウな日本のギャルどもとは質が違うのだな。やはり、現地妻にするならチェコ人だ。

途中の屋台でジュースを買って川沿いのベンチに腰を据えると、暮れ行く空とプラハ城は、実に素晴らしい眺めだ。この景色が、明日にはもう見られないと思うと、なんだかとても切ない。

川面を見下ろすと、白鳥やガチョウが群れていてとても可愛い。水鳥マニアの俺は、彼女たちと遊びたくて仕方なかったのだが、射撃島は相変わらず廃材の山だし、兵隊たちも見張っているから諦めるしかない。さすがに、この年でイタズラ坊主の真似をするわけにはいかないだろう。

すると、黄色人種の青年がベンチに近づいて来て、「そのスーパーは、どこにあるのですか?」と、テスコの買い物袋を指差して英語で言った。俺も英語で教えてやったが、日本人同士だったら滑稽だったな。

プラハには中国人や韓国人も多いから、知らない人とは英語で話すのが無難なのだ。でも、黄色人種同士の会話が「英語」というのは、どうも嫌な感じがする。かといって、中国語や韓国語が出来るわけじゃないから仕方ないのだが・・。俺が、あまりアジア諸国を旅行したがらない最大の理由はそれであった。

さて、7時20分になったので、そろそろ人形劇劇場に向かうことにする。併設の人形劇博物館で時間を潰せばちょうど良いと考えたのだ。

途中の沿道に人形の専門店を発見し、友人の子供のために、動物の人形でも買ってやろうと思って店内に入った。

他の店の人形売り場を物色したところでは、チェコの伝統的な人形は、王様や道化師や魔法使いが中心で、あまり「動物」は置いていないのだった。でも、俺の友人の子供は、熊が好きみたいなので、熊の人形を買ってあげたい。この店にはあるだろうかと思って店番の姉ちゃんに聞いてみたところ、自信満々に「ある」と答えた。それで、姉ちゃんに連れられて店の入り口近くの壁に行くと、確かに動物の人形があった。だが、角が2本生えているぞ。体の色は、黒と白の斑!

「これは熊じゃなくて牛だよ!」と言うと、姉ちゃんは「いいえ、これは熊さんよ、もーもーもー」と英語で言って、牛の鳴き真似を始めた。俺は、両手を高く振りかぶり、「熊はこうだよ、がおーがおー」と吼え始めたので、傍から見ると漫才みたいな状況になってしまった。まあ、痩せっぽちの俺が、熊の真似をしても伝わらなかったようだが。

どうやら、この赤毛の姉ちゃんは、本気で牛(OXまたはCOW)を熊(BEAR)と勘違いしているみたいなので、諦めて話題を変えた。「子供に買ってあげたいんだけど、他にお勧めの人形はないの?」。すると、姉ちゃんは小さな男の子の人形を手にとって、「カシュパルくんよ、可愛いでしょう!」。「うん、可愛いけど、本当は動物がいいんだよね。ところで、カシュパルくんって、カシュパーレックとは違うの?」。

姉ちゃんは、おお、こいつ少しは出来るな、という顔つきになって、大きな道化服の男性人形を持ってきた。「カシュパーレックは大人なの。カシュパルくんは子供なのよ」。

ふうん、カシュパーレックに、子供版があるとは知らなかった。

ここで解説しよう。チェコは、世界に名だたる人形劇王国である。その理由は、オーストリアのハプスブルク家による300年間の強圧的な植民地支配下(1620~1918)にあって、滅亡寸前のチェコ文化を守り抜いたのが人形劇だったからだ。ハプスブルク家は、チェコ語やチェコの歴史を全て抹殺しようとしたのだが、人形使いに身をやつしたチェコの知識人たちは、政府の目を掻い潜って地方でチェコの伝統を残し続けたのだ。そのため、多くのチェコ人は、人形劇にたいへん深い愛着を持っている。そして、そのころの人形劇で重要な活躍を果たしたのが、道化師人形のカシュパーレックなのだった。

ともあれ、結局、この店の動物人形は牛しかないようだが、ヒョウキンな姉ちゃんに親しみを感じたこともあって(現地妻にしたいタイプではなかったが)、これを買って帰ることにした。400コルナだから、1,600円。まあ、仕方ない。

店の前でウロウロしていた加賀谷に合流すると、2軒隣の人形劇劇場に入った。しかし、博物館の方は、もう閉館らしい。なんてこったい!そこで、いったん劇場を出てから、旧市街広場のベンチで少し休み、8時少し前に劇場に戻ってきた。

入り口を通った奥にある、古い屋敷の2階の一室が、小さな劇場になっていた。50人くらいしか、入れないんじゃないかな。幸い(?)、お客は全部で30人くらいだったが、みんな観光客だろう。中には、韓国人の一団もいた。

演目は、「ドン・ジョバンニ」だ。モーツアルトのオペラを、そのストーリーに沿って人形劇で再現するのだ。3年前、見たくても見られなかったやつが、いよいよ!と思うと感無量なのである。

加賀谷は、「どんな話なの?」と聞いてきたが、俺は、実は良く知らないのであった。それで、「貴族が出てきて幽霊が出てくる話」と適当に答えた。説明になっていないけど、間違いではない。

やがて、照明が落ちて、オペラの序曲が流れ出し、正面の舞台から可愛い人形たちが飛び出してきた。おおー、感動だぜ。

我々のすぐ後ろに座った若い白人アベックがうるさい。人形が出てきたとたんに大爆笑を始め、その後、シーンが進むたびにとにかく笑う。こいつら、実は麻薬中毒なんじゃねえのか?確かに、人間がやるべき役を、小さな人形たちがぴょんぴょんと演じるのだから、滑稽と言えなくもないけどね。

それにしても、面白い。人形劇というと、日本では子供向けのイメージが強いけど、下手なCG映画よりも内容が濃い。また、人形劇ならではのさまざまな工夫がなされている。たとえば、人物が走り去る場面では、その人形を舞台の脇に放り投げ(!)、全力疾走の感じを上手に出す。猫がけだるそうに散歩する場面では、二人の人形使いがそれぞれ前足と後足を担当し、絶妙なコンビネーションで猫の動きを表現するといった具合。

ラストに登場する幽霊は、人間が黒いマスクを被って演じた。この幽霊が、復讐を果たす場面で「劇終」である。明るくなった照明の中、舞台挨拶に出てきた6人の操演者たちに惜しみない拍手を送った。

いやあ、やっぱり面白かったなあ。二人で言い合いながら、またもや川沿いを散歩して国民劇場前から9番トラムに乗った。この街は、夜遅くなっても安全だから良い。

例によって、アンジェルのスーパーマーケットに突入。俺は、CD売り場でチェコロックを何枚か試聴した結果、ついに「エラーン」というバンドのアルバムを買うことにした。日本に帰って聴いてみたら、これが大正解。メロディを重視した骨太の名盤だった。

このCD売り場で気になったのは、売れ行きナンバーワンのロックアルバムのジャケットである。そこには、今では引退した小錦関が四股を踏む姿が大写しだ。ジャケットの裏側を見ると、日本文字の小さなロゴで「チェコ相撲協会」とある。どうも、この団体の許可をとって写真を掲載したものらしいが、相撲はこの国でも人気なのかもしれない。

日本人はチェコのことを何も知らないけれど(俺は例外)、チェコ人は日本の事情に詳しいらしい。これは寂しい話だ。ここは、俺が頑張ってチェコ文化の素晴らしさを我が国に伝えなければなるまい!と決意を新たにするのであった。

ともあれ、その日はジュース類を買って二人でホテルに帰り、交代で風呂に入ってすぐに寝た。明日は、帰国するだけの日だ。